ジュネーヴ条約

戦時国際法としての傷病者及び捕虜の待遇改善のための国際条約

ジュネーヴ条約(ジュネーヴじょうやく、: Convention de Genève, : Genfer Konvention, : Geneva Convention)とは、戦時国際法としての傷病者及び捕虜の待遇改善のための国際条約である。戦地軍隊における傷病者の状態の改善に関する条約、または赤十字条約とも呼ぶ。

赤十字条約
条約原本
通称・略称 ジュネーヴ条約
署名 1864年8月22日
署名場所 ジュネーヴ
発効 1886年6月5日
条文リンク 官報
法令全書
外務省 (PDF)
ウィキソース原文
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戦地軍隊ニ於ケル傷者及病者ノ状態改善ニ関スル条約
通称・略称 ジュネーヴ条約
赤十字条約
署名 1906年7月6日
署名場所 ジュネーヴ
発効 1908年10月23日
寄託者 スイス連邦政府
条文リンク 官報
法令全書
外務省(前文-署名 (PDF) 署名-締約国一覧表 (PDF)
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戦地軍隊ニ於ケル傷者及病者ノ状態改善ニ関スル千九百二十九年七月二十七日ノ「ジュネーヴ」条約
通称・略称 赤十字条約
署名 1929年7月27日
署名場所 ジュネーヴ
発効 1931年6月19日
寄託者 スイス連邦政府
条文リンク 官報
外務省(前文-第4条 (PDF) 第5-28条 (PDF) 第28条-締約国一覧表 (PDF)
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広義には、同条約を含めた、戦争犠牲者保護に関する4条約(ジュネーヴ諸条約)のことをいう。

概要

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締結

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1864年赤十字国際委員会(ICRC)が「戦争時の捕虜に対する扱いを人道的にする必要がある」として提唱し、スイスジュネーヴで「傷病者の状態改善に関する第1回赤十字条約」(1864年8月22日のジュネーヴ条約)が締結された。

改正

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以後、以下のように改正されている。

  1. 傷病者の状態改善に関する第1回赤十字条約(1864年)
  2. 傷病者の状態改善に関する第2回赤十字条約(1906年)
  3. 傷病者の状態改善に関する第3回赤十字条約(1929年)

関連条約

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また、関連する追加条約として以下が締結されている[1]

第二次世界大戦後の改正

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これらは第二次世界大戦後の1949年に全面改正され、ジュネーヴ諸条約(ジュネーヴ4条約、戦争犠牲者保護条約)として整理された。

旧条約との関係は以下の通りである[1]

  • ジュネーヴ条約(赤十字条約) → 戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第1条約)
  • ジュネーヴ条約の原則を海戦に応用する条約 → 海上にある軍隊の傷者、病者及び難船者の状態の改善に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第2条約)
  • 俘虜の待遇に関する条約 → 捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第3条約)
  • 戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第4条約、新設)

日本との関係

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日本は1886年(明治19年)6月5日に最初のジュネーヴ条約に加入している[1]

なお、ジュネーヴ条約は1864年に締結されていたが、日本では戊辰戦争榎本武揚らが1868年に箱館に樹立した政権(蝦夷共和国)が野戦病院(箱館病院)で敵味方の区別を行わずに治療を行い捕虜を保護する方針をとっていた[2]

これは戊辰戦争で局外中立を維持していた諸外国から信頼を得るため、榎本らが西欧的な方法を重視したことも背景にあるといわれている[2]。この箱館病院では榎本から病院頭取医師取締全権に任命された高松凌雲らが、まず官軍の負傷者6名の治療にあたり(1名は死亡)、5名が本州に送り帰され、これが「日本最初の赤十字活動」と称されている[3]。榎本の蝦夷地上陸後、病院が設置されてから1869年8月下旬まで敵味方合わせて約1340名の治療にあたった[2]

しかし、このような精神は完全には浸透しておらず、新政府軍の進軍時、病院の本院では院長の高松による患者の保護の主張が受け入れられたが、高龍寺分院では混乱が発生している[2]

脚注

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  1. ^ a b c 宮崎繁樹. “ジュネーブ条約”. 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンク. 2017年9月29日閲覧。
  2. ^ a b c d 中野和典. “「蝦夷共和国の顛末」”. 福岡大学情報基盤センター. 2021年1月24日閲覧。
  3. ^ 高松凌雲”. 公益財団法人 函館市文化・スポーツ振興財団. 2021年1月24日閲覧。

参考文献

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関連項目

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