ジャン・マルラン
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人物・生涯
編集慶応3年(1867年)、彼はジュール・ブリュネに同伴し、軍事顧問団として日本にやって来た。彼は幕府伝習隊を調練した。
戊辰戦争が勃発すると、マルランはフランス軍の職を辞し、旧幕府軍に加わり戦い続けることを選んだ。箱館戦争ではアルテュール・フォルタン、アンドレ・カズヌーヴ、フランソワ・ブッフィエと共に、「蝦夷共和国」軍の四列士満(レジマン、フランス語で連隊を意味する "régiment" をそのまま当て字にした)のうちの一隊の隊長を務めた。
明治2年4月9日(1869年5月20日)、新政府軍は北海道に上陸、5月11日(6月20日)五稜郭に立て籠もる箱館政権軍に対し、明治新政府軍の総攻撃が開始され、五稜郭は陥落、5月18日(6月27日)総裁・榎本武揚らは新政府軍に投降した。フランス人らは、榎本の勧めに従い、総攻撃前の5月1日(6月10日)に箱館港に停泊中のフランス船に逃れた。
その後、マルランは、フォルタン、ブッフィエと共に、明治3年(1869年)、当時大阪にあった兵部省に雇われた。マルランは明治5年に死去、神戸外国人墓地に埋葬された。
参考文献
編集- 鈴木明著、「追跡―一枚の幕末写真」、集英社(1984年)、ISBN 978-4087724929