ジム・ヒーガン
ジェームズ・エドワード・ヒーガン(James Edward Hegan、1920年8月3日 - 1984年6月17日)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州リン出身のプロ野球選手(捕手)、コーチ、スカウトである[1]。
1953年のヒーガン | |
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | アメリカ合衆国マサチューセッツ州リン |
生年月日 | 1920年8月3日 |
没年月日 | 1982年6月17日(61歳没) |
身長 体重 |
188 cm 88 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1938年度 |
初出場 | 1941年8月3日 |
最終出場 | 1960年7月4日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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概要
編集1941年から1942年、及び1946年から1960年にメジャーリーグベースボールで捕手として在籍した。中でもワールドシリーズ優勝へと導いた1948年のクリーブランド・インディアンスでの活躍が有名である[1]。
選手として打撃を得意とはしていなかったが、同年代で最高の守備力を誇り、投手陣をリードする技術が野球界(選手・評論家の両方)から良い評価を受けていた。MLBオールスターゲームに合計5回選出された[2][3]。
引退後はMLBコーチとして選手時代も含めプロ野球関係者としてのキャリアを約40年にわたって継続した。1966年にクリーブランド・インディアンス殿堂入りした[4]。
経歴
編集プロ入り前
編集1920年8月3日にアメリカ合衆国マサチューセッツ州リンに生まれる。高校はリン・イングリッシュ高等学校で、1938年にクリーブランド・インディアンスと契約した[1][5]。
インディアンス時代
編集マイナーリーグで4季プレーした後、1941年9月7日にクリーブランド・インディアンスでメジャーデビューを果たした[1]。1942年に68試合に出場後、第二次世界大戦終了までの期間はアメリカ沿岸警備隊に入隊していた[6]。
第二次世界大戦終了後の1946年にインディアンスに復帰し、フランキー・ヘイズに代わって正捕手となった。復帰2年目の1947年に初めてMLBオールスターゲームに選出[7]。
1948年は打撃面ではキャリア最高の成績となり、打率.248、本塁打16、打点61を記録した[1][8]。ボストン・レッドソックスと並んで首位となったインディアンスは、プレーオフでレッドソックスに勝利し、1948年のワールドシリーズでボストン・ブレーブスを破り優勝した[9][10]。
投手への対応に対する評価
編集打率は低かったが、勝率・完封・防御率リーグトップのインディアンス投手陣を率いていたことなどから、1948年の最優秀選手賞投票には19位にランクインした[11][12]。ヒーガンのリードの技術はその後も発揮され、インディアンスは1948年から1951年までリーグ防御率1位であり[12][13][14][15]、1951年、1952年には20勝を挙げた投手が3人いた[16]。インディアンス投手陣は、功績の一部がヒーガンの功績であると認めた[2][17]。
インディアンスのアメリカ野球殿堂入り投手ボブ・フェラーは、「彼は野球史上最高の守備力を誇る捕手の一人であった。ジムはいい試合を指揮した。意見が食い違うことはほとんどなかった。ジムは投手を落ち着かせるのがとても上手であった」と語ったという[2]。
同じくインディアンスのアメリカ野球殿堂入り投手ボブ・レモンはヒーガンについて、「私が投手を始めたころは、時々ヒーガンのサインに首を振っていた。でも、首を振るといつもヒットを打たれた。だから私はヒーガンのサインに首を振るのをやめた」と語った[2]。
1954年、ヒーガンは再びインディアンス投手陣を率いてリーグ防御率1位を記録し、137試合で失策は4つで、インディアンスは154試合で当時のシーズン記録となる111勝を挙げてアメリカン・リーグ優勝を果たした[1][18][19]。しかし、インディアンスはニューヨーク・ジャイアンツに敗れワールドシリーズ制覇とはならなかった[20]。1956年は再びインディアンス投手陣をリーグ防御率1位へと導き、インディアンスはヒーガンの選手生活で3度目となる20勝投手を3人輩出した[21][22]。
インディアンス退団後
編集1957年オフにデトロイト・タイガースに移籍[5]。その後も3度トレードに出され、1960年にシカゴ・カブスで39歳で引退した[5]。
キャリア統計
編集ヒーガンは1946年から1956年までの11シーズン、インディアンスの正捕手として活躍した[23]。通算1666試合に出場し、1087安打、打率.228、92本塁打、525打点の成績であった[1]。アメリカン・リーグの捕手の刺殺、補殺、併殺、1試合の守備機会及び守備率で3度トップに立ち、キャリア通算守備率は.990であった[2]。
捕手の通算守備率.990は1960年の引退時点でバディ・ロザーに次ぐ2位であった。MLBの捕手内で通算盗塁阻止率.4977は、歴代16位[24]、通算121完封を歴代9位[25]。クリーブランド・インディアンスで捕手として1491試合の出場は歴代1位である[26]。
ヒーガンのリード力の証として、インディアンス投手陣は球界最高の成績を残し、アメリカン・リーグの防御率1位を6回記録した[27]。アメリカン・リーグのMLBオールスターゲームに6回選出[1]。20勝投手6人(ボブ・フェラー、ボブ・レモン、ジーン・ベアデン、アーリー・ウィン、マイク・ガルシア、ハーブ・スコア)の捕手を務め、3人のノーヒットノーラン(ドン・ブラック(1947年)、ボブ・レモン(1948年)、ボブ・フェラー(1951年))をリードした[2]。さらに後にアメリカ野球殿堂入りを果たす7人の投手とバッテリーを組んだ[28]。
かなり優れた守備能力を持っていたものの、打撃があまり得意ではなかったことから、MLBの歴史の中で忘れられた人となってしまった[3][17]。ヤンキースの殿堂入り捕手ビル・ディッキーは、かつてヒーガンの守備能力について、「もしヒーガンのように捕球できれば、打つ必要はなかっただろう。」と話した[3][29]。
コーチとしての経歴
編集1960年、インディアンスでの元チームメイトのルー・ブードローが監督を務めるシカゴ・カブスのプレイングコーチとなった。7月4日に引退後は、年の途中からニューヨーク・ヤンキースのブルペンコーチに就任し、将来的な飛躍が期待されていた捕手のサーマン・マンソンやリック・デンプシーの指導を行った[30]。1973年シーズンをもってニューヨーク・ヤンキースのコーチを退任した。
その後、ラルフ・ホーク監督のもとデトロイト・タイガースのコーチとなり、1978年に退任。1979年に再びヤンキースのコーチに就任し1980年に退任。
コーチ退任後
編集ヤンキースのスカウトを務めていた1984年6月17日、アメリカ合衆国マサチューセッツ州スワンプスコットで心臓発作のため死去。63歳没[2]。
息子のマイク・ヒーガンは、1964年から1977年までMLBに在籍した一塁手で、サイクル安打を達成した経験がある。引退後はミルウォーキー・ブルワーズとインディアンスで野球解説者を務め、2013年に亡くなった。
マイクは1960年代と1970年代にヤンキースに2度にわたって在籍しており、その2度ともジムがヤンキースにコーチとして在籍していた時期と重なっていた。
関連項目
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h "Jim Hegan at Baseball Reference". Baseball Reference (英語). 2010年8月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g Dolgan, Bob (1999年2月). “Former Catcher Jim Hegan: Defense Was His Game”. Baseball Digest. 2010年8月23日閲覧。
- ^ a b c Doyle, Al (2002年11月). “Sustaining a Long Career”. Baseball Digest. 2010年8月24日閲覧。
- ^ “Cleveland Guardians Hall of Fame”. mlb.com. 2022年10月20日閲覧。
- ^ a b c “Jim Hegan Trades and Transactions”. Baseball Almanac. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “Jim Hegan – Society for American Baseball Research”. 2024年8月30日閲覧。
- ^ “1947 All-Star Game”. Baseball Reference. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “1948 American League Standings”. Baseball Reference. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “Bearden, Boudreau, Keltner Share Honors as Indians Win”. The Milwaukee Journal: p. 8. (1948年10月5日)
- ^ “1948 World Series”. Baseball Reference. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “1948 American League Most Valuable Player Award ballot”. Baseball Reference. 2010年8月23日閲覧。
- ^ a b “1948 American League Pitching Statistics”. Baseball Reference. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “1949 American League Pitching Statistics”. Baseball Reference. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “1950 American League Pitching Statistics”. Baseball Reference. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “1951 American League Pitching Statistics”. Baseball Reference. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “1952 Cleveland Indians Pitching Statistics”. Baseball Reference. 2010年8月23日閲覧。
- ^ a b Doyle, Al (1997年6月). “Never Underestimate A Good Defensive Catcher”. Baseball Digest. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “1954 Cleveland Indians Season”. Baseball Reference. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “1954 Cleveland Indians Pitching Statistics”. Baseball Reference. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “1954 World Series”. Baseball Reference. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “1956 American League Pitching Statistics”. Baseball Reference. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “1956 Cleveland Indians Pitching Statistics”. Baseball Reference. 2010年8月23日閲覧。
- ^ Lewis, Franklin (1955年5月). “They're Not Unmasking Hegan Now”. Baseball Digest. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “Career Leaders & Records for Caught Stealing Percentage”. Baseball Reference. 2013年1月3日閲覧。
- ^ “The Encyclopedia of Catchers – Trivia December 2010 – Career Shutouts Caught”. The Encyclopedia of Baseball Catchers. 2011年2月1日閲覧。
- ^ “Most Games as a Catcher”. The Encyclopedia of Catchers. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “Cleveland Indians”. si.com (1957年4月15日). 2015年1月29日閲覧。
- ^ “Catchers Who Caught The Most Hall Of Fame Pitchers”. sabr.org. 2012年6月28日閲覧。
- ^ “Jim Hegan”. 2010年8月23日閲覧。
- ^ Vass, George (2005年5月). “For Catchers, The Name of the Game is Defense”. Baseball Digest. 2010年8月23日閲覧。