ジェームズ・マレー (初代グレンライオン男爵)

初代グレンライオン男爵ジェームズ・マレー英語: James Murray, 1st Baron Glenlyon KCH FRS1782年5月29日1837年10月12日)は、イギリスの貴族、軍人、政治家。庶民院議員(在任:1807年 – 1812年)、寝室侍従英語版(在任:1812年 – 1832年)を務めた[1]。軍人としての最終階級は陸軍中将[1]

生涯

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第4代アソル公爵ジョン・マレーと妻ジェーン(Jane、旧姓カスカート(Cathcart)、1790年12月4日没、第9代カスカート卿チャールズ・カスカート英語版の娘)の次男として、1782年5月29日に生まれた[1][2]

1798年3月10日、コルネット英語版(騎兵少尉)としてイギリス陸軍軽竜騎兵第10連隊英語版に入隊した[3]。1799年に中尉に[4]、1801年8月22日に大尉に昇進した[5]。1802年に一旦半給になったものの[4]、1804年6月30日に西インド第6連隊(6th West India Regiment)に転じ[6]、1805年5月4日に歩兵第79連隊英語版の少佐に昇進した[7]

父は1805年にマレーのためにマン島副総督英語版の官職を申請したが、却下された[4]。マレーは代わりに1806年初にロイヤル・マンクス・フェンシブルス英語版の副隊長に就任[8]、1809年3月18日に隊長に昇進した[9]。その後、再び半給になった[10]

1806年2月22日、小ピットの葬儀に出席した[11]

1807年イギリス総選挙で父の支持を受けてパースシャー選挙区英語版から出馬、現職議員デイヴィッド・グラーム英語版が選挙戦に挑まず撤退したこともあって無投票で当選した[12]。議会で演説した記録はなく、投票した記録も3、4回だけ(いずれも政府を支持)だった[4]。父は首相スペンサー・パーシヴァルにマレーの叙爵を申請したが、失敗に終わり、一方で寝室侍従英語版の任命申請は成功した[4]。これにより、マレーは1812年2月にチルターン・ハンドレッズ執事英語版に就任する形で議員を辞任[13]、3月10日に摂政王太子ジョージ(後の国王ジョージ4世)により寝室侍従に任命された[14]。1813年6月15日、摂政王太子ジョージのエー=ド=カン英語版(副官)を1813年6月4日付で任命された[10]。その後、1819年にエー=ド=カンを退任した[1]

1818年4月9日、王立協会フェローに選出された[15]

1818年12月2日、ジョージ3世シャーロットの葬儀に出席した[16]

1819年8月12日、少将に昇進した[17]。1820年、ロイヤル・ゲルフ勲章英語版ナイト・コマンダーを授与された[1]

1821年戴冠式記念叙勲英語版において、1821年7月17日に連合王国貴族であるパースシャーにおけるグレンライオンのグレンライオン男爵に叙された[1][18]貴族院では1832年の第1回選挙法改正に賛成票を投じた[1]

1830年7月19日、国王ジョージ4世の葬儀に出席した[19]。1831年9月8日、国王ウィリアム4世の戴冠式に出席した[20]

1832年5月23日までに寝室侍従を辞任した[21][22]

1833年の奴隷廃止法によりイギリスにおける奴隷制度が廃止されると、1837年奴隷補償法英語版に基づき補償金を受け取った[23]

1837年1月10日、陸軍中将に昇進した[24]

高価な美術品収集を趣味とし、これが理由となって晩年には財政難に陥った[4]

1837年10月12日にセント・ジェームズ・ストリート英語版にあるフェントンズ・ホテル(Fenton's Hotel)で死去、30日にダンケル英語版で埋葬された[1]。息子ジョージ・オーガスタス・フレデリック・ジョンが爵位を継承した[1]

家族

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1810年5月19日、エミリー・フランシス・パーシー(Emily Frances Percy、1789年1月7日 – 1844年6月21日、第2代ノーサンバーランド公爵ヒュー・パーシーの娘)と結婚[1]、2男2女をもうけた[2]

  • ジョージ・オーガスタス・フレデリック・ジョン(1814年9月20日 – 1864年1月16日) - 第2代グレンライオン男爵、第6代アソル公爵[2]
  • ジェームズ・チャールズ・プランタジネット(James Charles Plantagenet、1819年12月8日 – 1874年6月3日) - 1851年11月6日、エリザベス・マージョリー・フェアホーム(Elizabeth Marjory Fairholme、1888年10月11日没、G・フェアホームの娘)と結婚、子供あり[2]
  • シャーロット・オーガスタ・レオポルディナ(Charlotte Augusta Leopoldina、1889年5月2日没) - 1847年6月10日、聖職者コート・グランヴィル(Court Granville、1871年没)と結婚[2]
  • フランシス・ジュリエット(Frances Juliet、1858年11月4日没) - 1840年1月16日、チャールズ・ヘンリー・メイナード閣下(Hon. Charles Henry Maynard第3代メイナード子爵ヘンリー・メイナード英語版の息子)と結婚[2]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1926). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat) (英語). Vol. 5 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 680.
  2. ^ a b c d e f Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. p. 153.
  3. ^ "No. 14096". The London Gazette (英語). 6 March 1798. p. 203.
  4. ^ a b c d e f Fisher, David R. (1986). "MURRAY, Lord James (1782-1837), of Cairdneys, Perth.". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年11月23日閲覧
  5. ^ "No. 15398". The London Gazette (英語). 18 August 1801. p. 1015.
  6. ^ "No. 15714". The London Gazette (英語). 26 June 1804. p. 795.
  7. ^ "No. 15803". The London Gazette (英語). 30 April 1805. p. 583.
  8. ^ "No. 15894". The London Gazette (英語). 25 February 1806. p. 263.
  9. ^ "No. 16237". The London Gazette (英語). 14 March 1809. p. 341.
  10. ^ a b "No. 16740". The London Gazette (英語). 12 June 1813. p. 1150.
  11. ^ "No. 15895". The London Gazette (英語). 1 March 1806. p. 280.
  12. ^ Fisher, David R. (1986). "Perthshire". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年11月23日閲覧
  13. ^ "No. 16586". The London Gazette (英語). 24 March 1812. p. 568.
  14. ^ "No. 16581". The London Gazette (英語). 7 March 1812. p. 450.
  15. ^ "Murray; James (1782 - 1837); Baron Glenlyon". Record (英語). The Royal Society. 2021年11月23日閲覧
  16. ^ "No. 17429". The London Gazette (英語). 8 December 1818. p. 2201.
  17. ^ "No. 17505". The London Gazette (英語). 12 August 1819. p. 1442.
  18. ^ "No. 17724". The London Gazette (英語). 14 July 1821. pp. 1461–1462.
  19. ^ "No. 18707". The London Gazette (英語). 19 July 1830. p. 1497.
  20. ^ "No. 18848". The London Gazette (英語). 13 September 1831. p. 1872.
  21. ^ Bucholz, Robert Orland, ed. (2006). "Index of officers: Mc - My". Office-Holders in Modern Britain (英語). Vol. 11. London: University of London. pp. 1266–1302. British History Onlineより。
  22. ^ "No. 4071". The Edinburgh Gazette (英語). 29 May 1832. p. 149.
  23. ^ "James Murray, 1st Baron Glenlyon". Legacies of British Slave-Ownership (英語). University College London. 2021年11月23日閲覧
  24. ^ "No. 19456". The London Gazette (英語). 10 January 1837. p. 64.

外部リンク

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グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
デイヴィッド・グラーム英語版
庶民院議員(パースシャー選挙区英語版選出)
1807年 – 1812年
次代
トマス・グラハム英語版
イギリスの爵位
爵位創設 グレンライオン男爵
1821年 – 1837年
次代
ジョージ・マレー