ジェームズ・フィッツジェラルド (初代リンスター公爵)
初代リンスター公爵ジェームズ・フィッツジェラルド(英語: James FitzGerald, 1st Duke of Leinster PC (Ire)、1722年5月29日 - 1773年11月19日)は、アイルランド王国の貴族、政治家。1744年までオファリー卿の儀礼称号を使用した[1]。
生涯
編集第19代キルデア伯爵ロバート・フィッツジェラルドとメアリー・オブライエン(Mary O'Brien、1692年2月12日 – 1780年2月10日、第3代インチクィン伯爵ウィリアム・オブライエンの娘)の息子として、1722年5月29日に生まれた[1]。
1741年から1744年までアサイ選挙区の代表としてアイルランド庶民院議員を務め[2]、1755年2月20日に父が死去するとキルデア伯爵位を継承した[1]。1745年3月19日にアイルランド枢密院の枢密顧問官に任命され、1746年5月22日に就任宣誓を行った[1]。
1747年2月7日、エミリア・メアリー・レノックス(1731年10月6日 – 1832年11月18日、第2代リッチモンド公爵チャールズ・レノックスの娘)と結婚[1]、9男9女をもうけた[3]。結婚に伴い、キルデア伯爵は1747年2月21日にグレートブリテン貴族であるバッキンガムシャーにおけるタップローのリンスター子爵に叙され、3月2日にグレートブリテン貴族院議員に就任した[注釈 1][1]。
- ジョージ(1748年1月15日 – 1765年9月26日) - オファリー伯爵の儀礼称号を使用[3]
- ウィリアム・ロバート(1749年3月13日 – 1804年10月20日) - 第2代リンスター公爵[3]
- キャロライン・エリザベス・メイベル(1750年6月21日 – 1754年4月13日[3])
- エミリー・マリア・マーガレット(1752年3月15日 – 1818年4月8日) - 1774年8月20日、初代ベロモント伯爵チャールズ・クートと結婚[3]
- ヘンリエッタ・キャサリン(1753年12月8日 – 1763年9月10日[3])
- キャロライン(1755年4月 – 1755年4月[3])
- チャールズ(1756年6月30日 – 1810年2月18日) - 初代レカール男爵[3]
- シャーロット(1758年5月29日 – 1836年9月12日) - 初代レイリー女男爵[3]
- ルイーザ・ブリジット(1760年6月19日 – 1765年1月[3])
- ヘンリー(1761年7月30日 – 1829年7月8日) - 1791年8月4日、シャーロット・ボイル・ウォルシンガム(後の第20代ド・ルース女男爵)と結婚、子供あり[3]
- ソフィア・サラ・メアリー(1762年9月26日[3] – 1845年3月21日)
- エドワード(1763年10月15日 – 1798年6月4日) - 1792年12月28日、ステファニー・キャロライン・アン・シムズと結婚、子供あり[3]
- ロバート・スティーブン(1765年1月15日 – 1833年1月2日) - 1792年7月22日、ソフィア・シャーロット・フィールディング(Sophia Charlotte Fielding、1773年 – 1834年9月19日、チャールズ・フィールディングの娘)と結婚、子供あり[3]
- ジェラルド(1766年3月15日 – 1788年1月[3])
- オーガスタス・ジョセフ(1767年12月8日 – 1771年12月[3])
- ファニー・シャーロット・エリザベス(1770年1月28日 – 1775年[3])
- ルーシー・アン(1771年2月5日 – 1851年) - 1802年7月31日、海軍軍人トマス・フォーリー(1833年1月10日没)と結婚[3]
- ジョージ・サイモン(1773年4月17日 – 1783年5月[3])
1756年から1757年までアイルランド摂政(Lord Justice[注釈 2])を務め、1761年にキルデア県総督に任命された[1]。また、1758年から1766年までアイルランド兵站部総監を、1760年から1766年まで王立アイルランド砲兵連隊を務め、軍階では1761年に少将に、1770年に中将に昇進した[1]。
1761年3月3日にアイルランド貴族であるオファリー伯爵とキルデア侯爵に叙され、同年12月10日にキルデア侯爵としてアイルランド貴族院議員に就任した[1]。1766年11月26日に同じくアイルランド貴族であるリンスター公爵に叙され[4]、1768年1月27日にリンスター公爵としてアイルランド貴族院議員に就任した[1]。
1770年に枢密顧問官からの辞任を求め、受け入れられた[1]。
1773年11月19日にダブリンのレンスター・ハウスで死去、クライストチャーチ大聖堂に埋葬された[1]。息子ウィリアム・ロバートが爵位を継承した[1]。
注釈
編集- ^ ただし、タップローはキルデア伯爵家ではなく、キルデア伯爵の母方の叔父にあたる第4代インチクィン伯爵ウィリアム・オブライエンが所有していた[1]。
- ^ アイルランド総督の不在中に政務を執る官職。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n Cokayne, George Edward; Doubleday, Herbert Arthur; Howard de Walden, Thomas, eds. (1929). The Complete Peerage, or a history of the House of lords and all its members from the earliest times, volume VII: Husee to Lincolnshire. Vol. 7 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. pp. 573–575.
- ^ "Biographies of Members of the Irish Parliament 1692-1800". Ulster Historical Foundation (英語). 2020年5月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s Lodge, Edmund, ed. (1846). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語) (15th ed.). London: Saunders and Otley. pp. 325–326.
- ^ "No. 10676". The London Gazette (英語). 11 November 1766. p. 2.
アイルランド議会 | ||
---|---|---|
先代 サー・ウォルター・ボローズ準男爵 マーカス・アンソニー・モーガン |
庶民院議員(アサイ選挙区選出) 1741年 – 1744年 同職:マーカス・アンソニー・モーガン |
次代 ウォルター・ウェルドン マーカス・アンソニー・モーガン |
アイルランドの爵位 | ||
爵位創設 | リンスター公爵 1766年 – 1773年 |
次代 ウィリアム・ロバート・フィッツジェラルド |
キルデア侯爵 1761年 – 1773年 | ||
先代 ロバート・フィッツジェラルド |
キルデア伯爵 1744年 – 1773年 | |
グレートブリテンの爵位 | ||
爵位創設 | リンスター子爵 1747年 – 1773年 |
次代 ウィリアム・ロバート・フィッツジェラルド |