ジェームズ・グリフィン (第2代グリフィン男爵)
第2代グリフィン男爵ジェームズ・グリフィン(英語: James Griffin, 2nd Baron Griffin、1667年12月15日洗礼 – 1715年10月31日埋葬)は、イギリスの貴族、政治家。
生涯
編集初代グリフィン男爵エドワード・グリフィンとエセックス・ハワード(Essex Howard、1691年2月以降没、第3代サフォーク伯爵ジェームズ・ハワードの娘)の息子として生まれ、1667年12月15日にロンドンで洗礼を受けた[1]。
1684年1月29日、ウェストミンスターの聖マーガレット教会でアン・レインズフォード(Anne Raynsford、1668年頃 – 1707年5月29日埋葬、リチャード・レインズフォードの娘)と結婚[1]、3男2女をもうけた[2]。
- エリザベス(1691年11月30日洗礼 – 1762年8月13日) - ヘンリー・ネヴィル(Henry Neville、1740年没、リチャード・ネヴィルの息子)と結婚。1741年6月9日、初代ポーツマス伯爵ジョン・ウォロップと再婚
- エドワード(1693年 – 1742年) - 第3代グリフィン男爵、子供あり
- ジェームズ - 生涯未婚
- リチャード - 早世
- アン - ウィリアム・ウィットウェル(William Whitewell)と結婚。第4代ハワード・デ・ウォルデン男爵ジョン・グリフィンの母
1685年イングランド総選挙でコート派の候補としてブラックリー選挙区から出馬、当選を果たした[3]。同年に陸軍に入隊して大尉になり、1686年に少佐に、1688年12月に中佐に昇進した[3]。1692年に父とともに逮捕されたが、後に保釈され、フランスのサン=ジェルマン=アン=レーに向かった[3]。プロテスタントである父と違いカトリック信者だったものの、1704年までに帰国した[3]。
1710年に父がロンドン塔に投獄されたまま死去すると、その遺産の継承を許可されたが、グリフィン男爵の称号を使用することはなかった[3]。
出典
編集- ^ a b c d Cokayne, George Edward, ed. (1892). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (G to K) (英語). Vol. 4 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 118.
- ^ "Griffin, Baron (E, 1688 - 1742)". Cracroft's Peerage (英語). 27 October 2009. 2019年8月17日閲覧。
- ^ a b c d e Edwards, E. R.; Ferris, John. P. (1983). "GRIFFIN, James (1667-1715), of Dingley, Northants.". In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年8月17日閲覧。
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先代 サー・リチャード・ウェンマン準男爵 ウィリアム・ライル |
庶民院議員(ブラックリー選挙区選出) 1685年 – 1689年 同職:ウェンマン子爵 |
次代 ウェンマン子爵 ジョン・パークハースト |
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先代 エドワード・グリフィン |
グリフィン男爵 1710年 – 1715年 |
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