ジェイ・マーチャントJay Marchant, 1888年1月7日 - 1962年6月14日)は、アメリカ合衆国映画監督俳優である[1]。本名ジェイ・カルヴィン・マーチャントJay Calvin Marchant [1]

ジェイ・マーチャント
Jay Marchant
本名 ジェイ・カルヴィン・マーチャント Jay Calvin Marchant
生年月日 (1888-01-07) 1888年1月7日
没年月日 (1962-06-14) 1962年6月14日(74歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 サウスダコタ州トリップ郡
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス郡
職業 映画監督俳優
ジャンル サイレント映画トーキー
活動期間 1920年 - 1933年
活動内容 1920年 ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー
1925年 監督廃業
1926年 阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画
1927年 帰国
1930年 助監督業
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人物・来歴

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1888年(明治21年)1月7日サウスダコタ州トリップ郡に生まれる[1]

ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に入社、俳優として、1920年(大正9年)、エディ・ポーロ主演のシリアル・フィルムサーカス王』、翌1921年(大正10年)に同じく『大魔王』に出演した後に映画監督に転向、エディ・ポーロがサイクロン・スミスを演じる短篇シリーズの監督を務める[1]。続いてピート・モリソン主演の短篇を量産し、シリアル『幽霊の都』の監督を務めている[1]。1925年(大正14年)いっぱいで監督業を廃業している[1]

1916年(大正5年)以来、日本市場に積極的にかかわっていたユニヴァーサルは、1926年(大正15年)9月、同地のスター俳優阪東妻三郎と組んで、製作会社阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画を日本に設立、カール・レムリが日本に送り込んだスタッフの1人として、ジェイ・マーチャントは撮影技師のアルフレッド・ゴズデンらとともに同年10月4日に日本に上陸している[2]。翌1927年(昭和2年)2月4日に公開された同社製作、川浪良太監督の『笑殺』には、製作としてクレジットされている[3]。同社は同年5月末には契約解除となり、マーチャントは帰国となった[2]

トーキーの時代となり、1930年(昭和5年)からは、各社で助監督を務めている[1]。1933年(昭和8年)以降の記録はない[1]

1962年(昭和37年)6月14日カリフォルニア州ロサンゼルス郡で死去した[1]。満74歳没。

フィルモグラフィ

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特筆以外はすべて監督作である[1]

1920年代

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1930年代

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関連事項

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  1. ^ a b c d e f g h i j Jay Marchant, Internet Movie Database (英語), 2010年7月22日閲覧。
  2. ^ a b 小松弘「モダニズムの成立-一九二七年における日本映画の状況-」『早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第3分冊日本文学演劇映像美術史日本語日本文化』第50巻、早稲田大学大学院文学研究科、2004年、25-42頁、CRID 1050282677496040448hdl:2065/8549ISSN 1341-7533 
  3. ^ ジェイ・マーチャント、日本映画データベース、2010年7月22日閲覧。
  4. ^ 豪勇サムソンキネマ旬報映画データベース、2010年7月22日閲覧。
  5. ^ 笑殺日本映画データベース、2010年7月22日閲覧。

外部リンク

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