シベニククロアチア語Šibenik, ドイツ語: Sibenning, イタリア語: Sebenico)はクロアチアの歴史的都市で、ダルマチアの中央、クルカ川アドリア海に流れ込む場所に位置している。 シベニクは政治的、教育、交通、産業、そして旅行についてもシベニク=クニン郡の中心地である。市民のほとんど(94.02%、2001年の統計)がクロアチア人である。

シベニク
市・基礎自治体
Šibenik
シベニクの港と中心部
シベニクの港と中心部
シベニクの旗
シベニクの公式印章
印章
シベニクの位置(クロアチア内)
シベニク
シベニク
クロアチアにおけるシベニクの位置
北緯43度44分 東経15度55分 / 北緯43.733度 東経15.917度 / 43.733; 15.917
クロアチア
シベニク=クニン郡
政府
 • 市長 Dr. Željko Burić
標高
0 m
人口
(2011)[1]
 • 市・基礎自治体 46,332人
 • 都市部
34,302人
等時帯 UTC+1 (CET)
 • 夏時間 UTC+2 (CEST)
郵便番号
22000
市外局番 022
ナンバープレート ŠI
ウェブサイト http://www.sibenik.hr/

シベニクの聖ヤコブ大聖堂ユネスコ世界遺産に登録されている(ID963)。沖合の聖ニコラス要塞「シベニク=クニン郡の聖ニコラス要塞」として「16世紀から17世紀のヴェネツィアの防衛施設群:スタート・ダ・テッラと西スタート・ダ・マール」の一部として世界遺産に登録されている(ID1533)。

歴史

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シベニクが初めて今の名前で登場するのは、1066年のクロアチア王、ペトロ・ウラジミール4世の時代に於いてである。 他のダルマチアの町と違い、シベニクのイリリア人ギリシャ人、と古代ローマ人が建設した。アドリア海東岸のクロアチアの都市では最古の町である。

1298年シベニクは「町」の地位と独自の司教区を与えられた。それ以来、クロアチア人が実際に定住する前の長い間、聖アンナの城の洞穴は、居住に利用されてきたと証明されている。

他のダルマチアの都市のように、シベニクは、1412年までヴェネツィア共和国に抵抗した。15世紀の終わりには、オスマン帝国がシベニクを脅かしたが征服するには至らなかった。16世紀には聖ニコラス要塞が建築され,17世紀までには、聖ヨハネ(Tanaja)とスビチェビッチ(Šubićevac(Barone))の要塞によって、シベニクの要塞化が再び促進された。

1797年ヴェネツィア共和国の滅亡によって、シベニクはハプスブルク帝国の支配下におかれた。 第一次世界大戦ユーゴスラビア王国の一部となり、第二次世界大戦の間、イタリアファシスト政権とナチスに占領された。戦後は、1990年クロアチア共和国の独立まで、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 の一部であった。

文化

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シベニクは芸術、文化、生活の発信基地で、毎年行われている、「シベニク国際児童フェスティバル(Međunarodni Dječji Festival)はその例の一つに数えられる。

 
シベニクの聖ヤコブ大聖堂

シベニクの中央教会、「シベニクの聖ヤコブ大聖堂」はユネスコ世界遺産に登録されている(ID963)。 15世紀から16世紀にかけて、幾人かの成功した建築家たちは、この大聖堂を完全に石で建築し、ゴシック様式ルネサンス様式の両方を兼ね備えたつくりになっている。大聖堂の屋根の、組み合わされた石の平板は、セルビア軍の爆撃により1991年に損傷を受けた。それ以来損傷は修復が続けられている。

沖合の聖ニコラス要塞は「シベニク=クニン郡の聖ニコラス要塞」として「16世紀から17世紀のヴェネツィアの防衛施設群:スタート・ダ・テッラと西スタート・ダ・マール」の一部として世界遺産に登録されている(ID1533)。

作曲家のヤコヴ・ゴトヴァツ(Jakov Gotovac)は、1922年シベニク市の「フィルハーモニー協会」を設立した。

出身者

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姉妹都市

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関連項目

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  • HNKシベニク - シベニクを本拠地とするサッカークラブ。

脚注

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外部リンク

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