金勢さき子
金勢 さき子(かなせ さきこ、1934年 - 1959年)は鉄鋼商社の木下商店によってジャカルタに送り込まれた日本のモデル。インドネシア初代大統領スカルノの愛人となった。
かなせ さきこ 金勢 さき子 | |
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生誕 |
1934年1月20日[1] 金沢市[2] ![]() |
死没 |
1959年10月30日(25歳没) ジャカルタ ![]() |
死因 | 自殺 |
出身校 | 東京都立目黒高等学校 |
親戚 | 長谷長次(伯父)[3] |
本籍地は石川県金沢市、住所は東京都世田谷区等々力町。1934年(昭和9年)1月20日、金勢大と静子の間に生まれる。1952年(昭和27年)に都立目黒高校を卒業するとモデル養成所に通った。その間、松竹映画が募集した「ミス明眸」及び「ミス・ジャズ」コンテストで共に2位入賞。その後渋谷の喫茶店ジャズ・コーナーで勤務。1955年7月には一流モデルクラブとされる「すみれモデルグループ」に加入。ファッションモデルとしての仕事[4][5]の傍らで銀座のナイトクラブ、クラウンや交詢社シローで勤務。2年後の秋に赤坂のキャバレー「紅馬車」に移籍した[1]。1958年(昭和33年)2月、友人に誘われて訪れた京都で来日中のスカルノと出会うが、これは政府与党関係者の差配だったとされる[注釈 1]。
当時、築地の料亭・金田中や銀座のナイトクラブ・交詢社シローやアスターハウスなど大手商社と深い繋がりのある店で、インドネシア使節団を相手とした木下商店主催の宴席が度々開かれている[6]。
自由な海外旅行など出来ない時代、木下商店ジャカルタ支店長・豊島中の娘の家庭教師という名目でパスポートを取得。1958年(昭和33年)11月、豊島の妻子と共に日本を発ち、ジャカルタのクマヨラン空港より入国。豊島支店長や大統領副官のサブール少佐らに出迎えられる。現地では表向きインドネシア賠償使節団長を務めたバスキの妻、バスキ夫人と呼ばれた。翌1959年(昭和34年)4月14日、スカルノの訪日に先立って一時帰国。6月6日には来日したスカルノが、帝国ホテルにさき子の両親を招待し結婚を申し込む。6月下旬、母・静子はさき子とその伯父で元衆議院議員の長谷長次同席のもと、東京新橋の喫茶店でジャカルタへ赴任予定だったある商社マンに「娘がスカルノの第三夫人としてインドネシアに行くことになったが、現地に知人もいないので面倒を見てやってほしい」と念入りに頼んでいる[注釈 2]。
だがさき子に結婚を申し込んだ直後、スカルノは日本で東日貿易社長の久保正雄に別の女性を紹介される[3]。同年9月にその女性、当時19歳の根本七保子がジャカルタ入り[注釈 3]。スカルノには他にも複数の妻や愛人がいた。
1959年(昭和34年)7月、両親と別れさき子はジャカルタに戻る。同年10月3日[8]、さき子はスカルノが根本とバリ島に出かけている間に、ジャカルタのクバヨランにある自宅で睡眠薬を飲み、両手首を剃刀で切って自殺を図った。後から来た年下の根本七保子に立場を奪われての事と推測されるが、この時は一命を取り留める。しかしさき子は同月30日、寄留していた政府軍将校の邸宅で、再び睡眠薬を飲むと湯を張り両手首を切った。将校の妻が発見し、セント・カルロス病院へ運び込んだが間に合わず落命[9]。遺体は「Saliku Maesaroh」というインドネシア名でクバヨランの墓地に埋葬されたとされる[注釈 4]。なお根本七保子はその後数年間スカルノの愛人だったが、1962年正式に第三夫人となっている。
脚注
編集注釈
編集- ^ すみれモデルクラブの所属モデルから最も相応しい者を選抜し、偶然を装って引き合わせた。ある情報ではさき子には2千万円が渡され、因果を含めてスカルノのもとへ送り込まれたとされる[1]。
- ^ この商社マンはジャカルタでも複数回さき子に面会しており、最後に会ったのはその死の一週間ほど前とされる。また「7月3日、ジャカルタに戻ったさき子は間もなくイスラム教に改宗してスカルノの第三夫人となった」[3]とする記事や、銀座の第一ホテルで結婚式を挙げたという説もあるが真偽は不明。
- ^ 同年10月には根本と同じ東日貿易から小林喜子も送り込まれる。小林は1931年1月生まれの当時28歳で、実家は文京区本郷で旅館を経営。1952年に米人と結婚したが夫は帰国後音信不通になっており、続く父の死により経済的に困窮し赤坂の紅馬車で働いていた[7]。すぐに帰国したとも現地で死亡したとも言われているが消息は明らかになっていない。
- ^ ジャカルタの日本人納骨堂で金勢さき子の遺骨を見たという証言もある[10]。
出典
編集- ^ a b c 栃窪宏男『二つの祖国を生きた:続・日系インドネシア人』サイマル出版会、1983年9月、206頁。NDLJP:12260397/115。
- ^ 木村文平『鉄鋼三国志』 天の巻、鋼材新聞社、1961年、34頁。NDLJP:1359938/23。
- ^ a b c 『現代』16(1)、講談社、1982年1月、222-243頁。NDLJP:3367418/117。
- ^ 『婦人生活』12(8)、婦人生活社、1958年8月、286頁。NDLJP:2324627/144。
- ^ 『明星』7(4)、集英社、1958年3月、111頁。NDLJP:1721877/57。
- ^ 木村文平『会社対会社:企業支配この恐怖の謀略 (ライフ・ブックス)』青春出版社、1963年、111頁。NDLJP:3016022/58。
- ^ 木村文平『鉄鋼三国志』 天の巻、鋼材新聞社、1961年、39頁。NDLJP:1359938/25。
- ^ 藤原弘達『弘達エッセンス』 4 地球を翔ける、講談社、1984年5月、253頁。NDLJP:12239727/128。
- ^ 栃窪宏男『二つの祖国を生きた:続・日系インドネシア人』サイマル出版会、1983年9月、213頁。NDLJP:12260397/118。
- ^ 『月刊フォーラム』3(24)、フォーラム90s、1992年7月、24-34頁。NDLJP:2331504/18。