サムラージャ・ラクシュミー・デビー
サムラージャ・ラクシュミー・デビー(Samrajya Lakshmi Devi, 1814年頃 - 1841年10月16日)は、ネパール王国の君主ラジェンドラ・ビクラム・シャハの第一正妃。
サムラージャ・ラクシュミー・デビー Samrajya Lakshmi Devi | |
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ネパール王妃 | |
出生 |
1814年頃 ゴーラクプル |
死去 |
1841年10月6日 ヘタウダ |
配偶者 | ラジェンドラ・ビクラム・シャハ |
子女 | スレンドラ、ウペンドラ、デベンドラ |
宗教 | ヒンドゥー教 |
生涯
編集1824年2月5日、ネパール王ラジェンドラ・ビクラム・シャハと結婚し[1]、第一正妃なった。王との間には3男をもうけた。
1837年、王妃はビムセン・タパに殺害されたダモダル・パンデの息子ラナ・ジャンガ・パンデを取り立てて、パンデ一族にかけられた罪を許し、財産を返還した[2]。そして、ビムセンにとどめの一撃を刺すため、デベンドラ王子毒殺事件を蒸し返して投獄し、自殺に追い込んだ[3]。
王妃はラジェンドラ王を退位させ、自分の息子スレンドラを新王にしようとしたが、王が応じなかった[3]。怒った王妃は王宮を出、王もまたそれを追いかけたため、ランガ・ナート・パウデル、次いでプシュカル・シャハらは相次いで執権を辞任した[4]。
その後、ラナ・ジャンガが執権となったが1840年に罷免、ファッテ・ジャンガにとってかわられ、王も退位しなかった[5]。そのため、王はラナ・ジャンガが罷免されたことに抗議し、王宮を出てヴァーラーナシーへ向かったが、イギリスによって入国を拒否された[5]。
1841年10月6日、王妃は途中のヘタウダでマラリヤのため死去した[5][1]。王妃の死後、第二正妃のラージャ・ラクシュミー・デビーが権力の中心となった。
脚注
編集参考文献
編集- 佐伯和彦『世界歴史叢書 ネパール全史』明石書店、2003年。