ゴットハルト・ケトラー
ゴットハルト・ケトラー(ドイツ語:Gotthard Kettler、1517年 - 1587年3月28日)は、最後のリヴォニア騎士団総長(在任:1559年 - 1561年)、および最初のクールラント・ゼムガレン公(在位:1561年 - 1587年)。
ゴットハルト・ケトラー Gotthard Kettler | |
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クールラント・ゼムガレン公 | |
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在位 | 1561年 - 1587年 |
出生 |
1517年 アンレヒテ郊外 |
死去 |
1587年3月28日 クールラント・ゼムガレン公国、ミタウ |
配偶者 | アンナ・フォン・メクレンブルク |
子女 |
アンナ フリードリヒ ヴィルヘルム エリーザベト |
家名 | ケトラー家 |
父親 | ゴットハルト・ケトラー |
母親 | ゾフィー・フォン・ネッセルローデ |
宗教 | キリスト教カトリック → ルター派 |
生涯
編集ケトラーはドイツの貴族ゴットハルト・ケトラーとその妻ゾフィー・フォン・ネッセルローデの間の9番目の子供として、ヴェストファーレン地方のアンレヒテ郊外で生れた。一族はヴェストファーレンで古くから続く貴族の家柄だった。ケトラーの兄ヴィルヘルムは、1553年から1557年までミュンスター司教を務めている。
ケトラーは1554年にデュナブルクのコムトゥル(郡長)となり、1557年にフェリン(ヴィリャンディ)のコムトゥルとなった。リヴォニア戦争中の1559年、ヴィルヘルム・フォン・フュルステンベルクの後継者として、リヴォニア騎士団総長に就任した。リヴォニア連盟がロシアのツァーリ・イヴァン4世の強い圧力にさらされるようになると、ケトラーはこれに対抗してルター派プロテスタントに改宗し、それまでリヴォニア騎士団の治める修道院国家の一部だったクールラントとゼムガレンを世俗化させた。そして1561年11月28日のヴィリニュス合同協定に基づき、ケトラーはポーランド王冠(まもなくポーランド・リトアニア共和国を形成する)の封土という形で、クールラント・ゼムガレン公国を創設し、自らその最初の統治者となった。
ケトラーは1587年に公国の首都ミタウ(イェルガヴァ)で死去した。彼の子孫は1737年までクールラントを支配した。
子女
編集1566年、ケトラーはメクレンブルク公アルブレヒト7世の娘アンナ(1533年 - 1602年)と結婚し、4人の子女をもうけた。
- アンナ(1567年 - 1617年) - アルブレフト・ラジヴィウ公爵と結婚
- フリードリヒ(1569年 - 1642年) - クールラント・ゼムガレン公
- ヴィルヘルム(1574年 - 1640年) - クールラント・ゼムガレン公
- エリーザベト(1601年没) - チェシン公アダム・ヴァツワフと結婚
爵位・家督 | ||
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先代 ヨハン・ヴィルヘルム・フォン・フュルステンベルク |
リヴォニア騎士団総長 1559年 - 1561年 |
次代 世俗化による消滅 |
爵位創設 | クールラント公 1561年 - 1587年 |
次代 フリードリヒ・ケトラー |