ゲイリー・バーネル・ベイカーチ(Gary Burnell Beikirch, 1947年8月29日 - 2021年12月26日)は、アメリカの軍人。ベトナム戦争にはアメリカ陸軍の戦闘衛生兵として従軍し、キャンプ・ダクシーン英語版を巡る戦いの最中、重傷を負いながらも負傷者の治療を続けたことで名誉勲章を受章した。最終階級は軍曹。

ゲイリー・バーネル・ベイカーチ
Gary Burnell Beikirch
生誕 (1947-08-29) 1947年8月29日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ロチェスター
死没 2021年12月26日(2021-12-26)(74歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ロチェスター
所属組織 アメリカ陸軍
軍歴 1967年 - 1971年
最終階級 軍曹(Sergeant)
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経歴

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1947年8月29日、ニューヨーク州ロチェスターに生まれる[1]

軍歴

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1967年8月、ニューヨーク州の大学に通っていたベイカーチは陸軍に入隊する。彼は入隊直後からグリンベレーへの配属を希望していたという。ニュージャージー州フォート・ディックス英語版での基礎訓練を終えた後、ジョージア州フォート・ベニング内の空挺学校英語版に入校した。空挺学校卒業後はグリンベレーの入隊試験に合格、ノースカロライナ州フォート・ブラッグで特殊部隊員向けの訓練を受けた。その後、戦闘衛生兵に任命され、1969年7月にはベトナムへの派遣が決定した。

ベトナムにて、ベイカーチ軍曹は第5特殊部隊グループ英語版B中隊に配属された。同中隊は中部高原コントゥム内に設置されたキャンプ・ダクシーンに駐屯していた。このキャンプの周辺にはモンタニヤード英語版部族の民兵やその家族が暮らす集落があった。1970年4月1日、キャンプはベトナム人民軍北ベトナム軍)による大規模な攻勢に晒された。ベイカーチは負傷したモンタニヤード兵を治療しつつ、4.2インチ迫撃砲で反撃を試み、敵の応射でこれが破損した後も機関銃を用いて反撃を続けた。そして負傷したアメリカ兵が無防備な場所に倒れているのを見つけると、彼は銃火の中を走り救助を試みた。この際、彼の近くで榴散弾が炸裂し、破片の1つが彼の背骨の近くに当たって彼の四肢の一部を麻痺させている。彼はモンタニヤード兵の手を借りて場所を移して治療を行った。その後、治療したモンタニヤード兵に人工呼吸を施している最中に側方から銃撃を受けて胃を貫通されるという重傷を負ったが、その後も意識を失うまで担架の上から治療と応戦を続けたのである。彼はヘリコプターで前線を離れ、バレー・フォージ医療センター(Valley Forge Medical Center)に6ヶ月入院することとなった[1][2]

1973年10月15日、リチャード・ニクソン大統領はベイカーチのキャンプ・ダクシーンでの戦功に対する名誉勲章の授与を正式に発表した[2]

その後

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ベイカーチ(2014年)

退役後、ベイカーチはニューハンプシャー州のホワイトマウンテン神学校(White Mountain Seminary)に通い、1975年に卒業した。彼は自らが戦ったコントゥム省にある宣教師病院での勤務を望んでいたものの、同地がまもなく北ベトナム軍に占領された為に彼の夢は叶わなかった。その後、彼はアメリカ国内で牧師として働く傍ら、カンセリングの修士号を修得した。1980年代中頃より、彼は故郷ロチェスターの中学校にてカウンセラーとして勤務しているという[2]

2012年9月22日、第5特殊部隊グループ第2大隊は新しい大隊作戦ビル(Battalion Operations Complex)を設置した。この建物は彼の名を取ってベイカーチ・ホール(Beikirch Hall)と呼ばれている[3]

2021年12月26日、故郷ロチェスターにてガンのために死去[4]

名誉勲章の勲記

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ベイカーチに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。

課せられた義務を凌駕する類稀なる武勇と自らの命をも顧みない勇敢に捧ぐ。

B-24分遣隊B中隊に所属する衛生兵ベイカーチ軍曹は、キャンプ・ダクシーンの防衛においてその名を知らしめた。キャンプ周囲に潜んでいた敵による大攻勢は友軍守備隊に大量の死傷者を強いた。ベイカーチ軍曹は自らに振りかかる危険を物ともせず、倒れた戦友を救う為に激しい砲火の中を走りぬけ、応急処置を施し救護所への搬送を行った。ある米軍将校が重傷を負い無防備な場所に倒れていると聞けば、ベイカーチ軍曹はやはり銃火をくぐり抜け将校のもとへと走った。この時、彼は榴散弾の破片を浴びて負傷してるが、それでも将校を救護所まで搬送した。彼は自らの深刻な負傷などまるで気にかけず、比較的安全な救護バンカーを抜けだして、負傷者の捜索と搬送を引き続き行った。致命傷を追ったベトナム人兵士に人工呼吸を施しつつ救護所を目指していた時、彼は再び負傷した。ベイカーチ軍曹は再び治療を拒否し、彼自身が崩れ落ちるまで負傷者の捜索を続けた。彼は最後まで自らの治療を許可しなかった。自らの生命の危機が迫る中で示された、戦友の幸福に対するベイカーチ軍曹の完全な献身は、彼と彼の部隊、そして合衆国陸軍の信望を確かなものにしたのである[1]

脚注

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参考文献

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