邢晏
(ケイ晏から転送)
経歴
編集邢脩年と李氏のあいだの子として生まれた。態度や振る舞いが美しく、文雅を好んだ。経書や史書を広く渉猟して、仏教や老荘を語るのを得意とした。太学博士・司徒東閤祭酒を初任とした。宣武帝の初年、広平王元懐とともに遊宴したことから、鄚県令に左遷されたが、赴任しなかった。給事中に任じられ、司空主簿・瀛州中正・汝南王文学に転じた。ほどなく輔国将軍・司空長史・吏部郎中に転じた。輔国将軍のまま南兗州刺史として出向した。洛陽に召還されて、太中大夫となり、高陽王元雍の下で丞相右長史を兼ねた。まもなく輔国将軍のまま滄州刺史に任じられた。528年(武泰元年)2月13日、済陰郡離狐県で死去した。享年は51。征北将軍・尚書左僕射・瀛州刺史の位を追贈された。諡は文貞といった。
妻子
編集妻
編集子
編集- 邢覧(507年 - 524年、州主薄)
- 邢象(509年 - 527年、邢季彦の後を嗣いだ。郡功曹、州主薄)
- 邢測(513年 - ?、字は子深。太尉府行参軍。太師府主簿。平北将軍・太中大夫。武定末年に太子洗馬)
- 邢亢(516年 - 549年、字は子高。司空行参軍を初任とし、広平王開府従事中郎に転じた。543年、通直散騎常侍を兼ね、南朝梁に対する使者として立った。帰国すると、平東将軍の号を受け、高澄の下で大将軍府属となった。さらに中外府属に転じた。549年に事件に連座して晋陽で処刑された)
- 邢子長(524年 - ?、太司馬府集曹行参軍)
- 邢子広(526年 - ?)