ケイレブ・ストロング
ケイレブ・ストロング(英語: Caleb Strong、1745年1月9日 - 1819年11月7日)は、アメリカ合衆国の弁護士、政治家。1800年から1807年及び1812年から1816年までマサチューセッツ州知事を務めた。
ケイレブ・ストロング Caleb Strong | |
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ケイレブ・ストロング(ジョン・ノーマン画、1812年) | |
生年月日 | 1745年1月9日 |
出生地 | イギリス領北米植民地、マサチューセッツ湾直轄植民地ノーサンプトン |
没年月日 | 1819年11月7日(74歳没) |
死没地 | アメリカ合衆国、マサチューセッツ州ノーサンプトン |
出身校 | ハーバード大学 |
前職 | 弁護士 |
所属政党 | 前与党→連邦党 |
サイン | |
選挙区 | マサチューセッツ州 |
在任期間 | 1789年3月4日 - 1796年6月1日 |
後任者 | セオドア・セジウィック |
第6代マサチューセッツ州知事 | |
在任期間 | 1800年5月30日 - 1807年5月29日 |
副知事 |
サミュエル・フィリップス・ジュニア エドワード・ロビンズ |
第10代マサチューセッツ州知事 | |
在任期間 | 1812年3月4日 - 1816年5月30日 |
副知事 | ウィリアム・フィリップス・ジュニア |
生涯
編集マサチューセッツ湾直轄植民地のノーサンプトンで生まれた。アメリカ独立戦争の間、ノーサンプトンの安全委員会に務めた。1779年にはマサチューセッツ憲法選定会議で代議員となり、翌1780年憲法の草稿作成に貢献、同年には大陸会議代議員に選ばれたが、参加はしなかった。初代のマサチューセッツ知事評議会委員となり、1780年から1789年には邦上院議員となった[1]。
その後ストロングはアメリカ合衆国憲法制定会議の代議員に選ばれた。しかし、妻が病気になったことで、会議での作業が終わる前にマサチューセッツに戻らざるを得ず、最終稿には署名しなかった。ただし、マサチューセッツでの批准会議ではその採択を支持した。
マサチューセッツ州知事就任後は1812年の米英戦争に反対し、その戦争のために州民兵を召集することを拒んだ。ストロングは連邦党員だったが、それでも州民兵の召集権限は州知事にだけありアメリカ合衆国大統領ではないという、州の権限に固執した。この姿勢に加えて、志願兵が足りなかったこともあり、軍指揮官のアンドリュー・ジャクソンやオリバー・ハザード・ペリーは合衆国軍に有色人種の入隊を認めることを余儀なくされた。
1819年にノーサンプトンで死去し、ノーサンプトンのブリッジ・ストリート墓地に埋葬された。
第二次世界大戦中のリバティ船「SSケイレブ・ストロング」はストロングの栄誉を称えて名付けられた。
メイン州ストロングの町はストロングにちなんで名付けられた[2]。オハイオ州ポーテージ郡のストロングスバーグもストロングにちなんで名付けられたが、後にウィンダムに改称された。
脚注
編集- ^ Source for this paragraph: David L. Sterling. "Strong, Caleb"; American National Biography Online, Feb. 2000.
- ^ “STRONG COMMUNITY PROFILE”. www.epodunk.com. 2007年4月21日閲覧。
外部リンク
編集- United States Congress. "ケイレブ・ストロング (id: S001009)". Biographical Directory of the United States Congress (英語).
- ケイレブ・ストロング - Find a Grave
- Official Commonwealth of Massachusetts Governor Biography
アメリカ合衆国上院 | ||
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先代 (新設) |
マサチューセッツ州選出上院議員(第2部) 1789年3月4日 - 1796年6月1日 同職:トリストラム・ダルトン、ジョージ・カボット |
次代 セオドア・セジウィック |
公職 | ||
先代 マサチューセッツ州知事評議会 (知事代行) |
マサチューセッツ州知事 1800年5月30日 - 1807年5月29日 |
次代 ジェイムズ・サリバン |
先代 エルブリッジ・ゲリー |
マサチューセッツ州知事 1812年3月4日 - 1816年5月30日 |
次代 ジョン・ブルックス |