グレナダの海戦
グレナダの海戦 (グレナダのかいせん、英: Battle of Grenada)は、アメリカ独立戦争中盤の1779年7月6日に、イギリス領西インド諸島のグレナダ島海岸沖で、フランス海軍とイギリス海軍の間に行われた海戦である。ジョン・バイロン提督指揮下のイギリス艦隊がグレナダ島沖に到着し、島を占領したばかりのデスタン伯爵指揮下のフランス軍から取り返そうとした。
グレナダの海戦 Battle of Grenada | |||||||
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アメリカ独立戦争中 | |||||||
グレナダの海戦、ジャン=フランソワ・ヒュー画 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
フランス王国 | グレートブリテン王国 | ||||||
指揮官 | |||||||
デスタン伯爵 | ジョン・バイロン | ||||||
戦力 | |||||||
戦列艦: 25艦 総砲門数: 1,468 門 |
戦列艦: 21艦 総砲門数: 1,516 門 | ||||||
被害者数 | |||||||
戦死: 176 名 負傷: 773 名[1] |
戦死または負傷: 1,055 名[1] 4 艦が大破 |
バイロンは戦力的に優位にあると思いこみ、グレナダの停泊地を離れたばかりのフランス艦隊に対して、総攻撃を命じた。イギリス艦隊の攻撃が秩序立っていなかったことと、戦力的にフランスが優位だったために、イギリス艦隊は大きな損傷を被った。ただし、艦船の沈没までは免れた。海軍歴史家のアルフレッド・セイヤー・マハンはこのイギリス艦隊の損失を「(1690年の)ビーチーヘッドの海戦以来の大変な惨事だ」と記した[2]。フランスは勝利したにも拘わらず、それ以上攻撃を続けようとはせず、折角得られた戦術的優位を有効に使えなかった。
背景
編集1778年初期にフランスが仏米同盟によってアメリカ独立戦争に参戦した。フランス海軍のデスタン提督は1778年12月初旬に西インド諸島に到着した。その艦隊は12艦の戦列艦に多くの小艦艇が組み合わされていた[3]。これと同じ頃、イギリスのウィリアム・ホザム提督が指揮する艦隊もカリブ海に到着しており、サミュエル・バーリントン提督指揮下の西インド諸島艦隊を補強した[4]。イギリス艦隊は続いてフランスが保持していたセントルシアを占領した。このときはデスタンの艦隊が救援に駆けつけたが実らなかった。イギリスはデスタンが本拠地にしているマルティニーク島を監視するためにセントルシアを使った[5]。
1779年1月、ジョン・バイロン提督指揮下の戦列艦10艦が到着し、イギリス艦隊はさらなる補強を受けた。バイロンがイギリス領リーワード諸島の指揮を引き継いだ[6]。1779年の前半にフランスもイギリスもさらに補強されており、フランス艦隊がイギリス艦隊を凌ぐようになった[7]。これに加えて、セントキッツ島に集結していたイギリス商船の船団をヨーロッパまで護送するために、バイロンが6月6日にセントルシアを離れたので、デスタンは自由に行動できるようになった。デスタンとマルティニーク総督のド・ブイエ侯爵はこのチャンスを捉えて、近くにあるイギリス領の島々への一連の作戦を開始した[8]。
その最初の標的が、セントルシア島のすぐ南にあるセントビンセント島であり、これを6月18日に占領した後は他の島々に関心を移した。続いてイギリスの重要な拠点であるバルバドス諸島の占領を考えたが、この時点では東よりの貿易風が吹いていたために進むことができず、その代わりに矛先をグレナダに向けた[9]。フランス艦隊は7月2日にグレナダに到着し、7月3日遅くからその守備隊主力に襲い掛かった。降伏の条件は7月4日に合意された[10]。
バイロン提督は7月1日に、フランス軍によってセントビンセント島が占領されたことを知らされ、部隊を載せて島を取り返しに向かってた。さらにグレナダがフランス軍に攻撃されたのを知った時は、即座に進路を変更してフランス軍と対戦すべくグレナダに向かった[10]。この時のイギリス艦隊は戦列艦21艦とフリゲート艦1艦で構成されていた。陸兵の輸送船を護送しており、フリゲート艦が足りなかったので、戦列艦3艦を輸送船の護送に宛てた。デスタンは7月5日にバイロン艦隊が近付いていることを知らされ、即座に部隊の大半を乗艦させた。その艦隊は戦列艦25艦と多くのフリゲート艦および小艦艇で構成されていた[11]。バイロンはセントルシアを離れていた間に、フランス艦隊がヨーロッパからトゥーサン=ジローム・ピケ・ド・ラ・モットの指揮する戦隊で補強され、戦力を増していたのを知らなかった。
海戦
編集フランス艦隊はグレナダ島の南西にある首都セントジョージズ沖に碇泊していた。イギリス艦隊は7月5日の夜の間に島に接近してきていた。デスタンは、イギリス艦隊を視認した7月6日午前4時に碇を上げさせ、速度を出すために艦隊に戦列を組むよう命じた。これは通常の出港命令には無いやり方だった。艦隊はほぼ北方に向かった[12]。停泊地では一団になっていた各艦がそれぞれ出て行ったので、フランス艦隊の真の勢力を隠す効果があった。バイロンは自艦隊の勢力が上回っていると信じており、北東から停泊地に近付くと、総攻撃を命じた[13]。
バイロンはフランス艦隊の真の勢力に気付いたときに、戦闘隊形を組み直そうとした。その結果、イギリス艦隊の攻撃は統率が取れず、混乱した。HMSフェイム、HMSライアンなど4艦が主部隊から離れ、ひどい損傷を被った。ライアンは捕獲を免れるためにジャマイカまで遁走した。フランス艦隊は艦船を失わず、最後は戦いから手を引いた。イギリス艦隊の人的損失は戦死183名、負傷346名だった。フェイムでは戦死4名、負傷9名だった。フランス艦隊は190名が戦死、759名が負傷した。
海戦の後
編集デスタンは艦の修繕のためにグレナダに戻り、イギリス艦隊も同様にセントキッツに戻った。デスタンは西インド諸島海域で、その戦力的優位を生かす行動が取れなかった。バイロンは8月に母国に戻った。デスタンは9月にイギリスの支配するジョージア州サバンナを囲んだが、包囲戦は失敗した。その後デスタンも母国に戻った。
参戦した戦力
編集下記リストで( )内は搭載砲門数と乗組員数を示す。
イギリス海軍編集前衛編集
中衛編集
後衛編集
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フランス海軍編集前衛編集
中衛編集
後衛編集
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脚注
編集参考文献
編集- Allen, Joseph; Battles of the British Navy Volume I London 1852 Page 273
- Beatson, Robert; Naval and Military Memoirs of Great Britain from 1727 to 1783 Volume VI, London 1804 Page 160
- Castex, Jean-Claude (2004). Dictionnaire des batailles navales franco-anglaises. Presses Université Laval. ISBN 978-2-7637-8061-0
- Colomb, Philip (1895). Naval Warfare, its Ruling Principles and Practice Historically Treated. London: W. H. Allen. OCLC 2863262
- Mahan, Alfred Thayer (1898). Major Operations of the Royal Navy, 1762–1783: Being Chapter XXXI in The Royal Navy. A History. Boston: Little, Brown. OCLC 46778589
- White, Thomas; Naval Researches or a candid inquiry into the conduct of admirals Byron, Graves, Hood, and Rodney, jn the actions off Grenada, Chesapeak, St. Christopher's, and of the ninth and twelfth of April 1782; London 1830