グルーベンハーゲン侯領
- グルーベンハーゲン侯領
- Fürstentum Grubenhagen
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← 1291年 - 1596年 → (国章)
ニーダーザクセン・クライスにおけるグルーベンハーゲン侯領(青色)-
公用語 低地ドイツ語、ドイツ語 首都 アインベック(1291年 - 1486年)
ヘルツベルク・アム・ハルツ(1486年 - 1596年)- グルーベンハーゲン侯
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1291年 - 1322年 ハインリヒ1世 1595年 - 1596年 フィリップ2世 - 変遷
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創設 1291年 ニーダーザクセン・クライスへの参加 1500年 ヴォルフェンビュッテル侯領に併合 1596年 リューネブルクに割譲 1617年
現在 ドイツ
グルーベンハーゲン侯領(ドイツ語:Fürstentum Grubenhagen)は、神聖ローマ帝国の領邦国家。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国の分邦の1つで、1291年よりヴェルフ家のグルーベンハーゲン系が領有した。ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン侯領ともいわれる。1596年にブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領に併合されたが、1617年にリューネブルク侯領に割譲された。また1655年よりヴェルフ家カレンベルク系が領有した。
地理
編集領地は2つの部分に分割されており、ゾリング川の北西端とザルツダーヘルデン近くのライネ川の間の地域と、オーバーハルツ南部と南西ハルツ山麓の丘の北の地域から構成されていた。アイヒスフェルトも一時期その一部であった。アインベックとザンクト・アレクサンドリ修道院、ヘルデンブルク、グルーベンハーゲン城、オステローデ・アム・ハルツ、クラウスタール、ドゥーダーシュタット(1366年にマインツに割譲)、ヘルツベルクおよびヘルツベルク城が含まれる。
歴史
編集1291年にブラウンシュヴァイク=リューネブルク公アルブレヒト1世の息子たちの間で遺産が分割され、ハインリヒ1世が新たに創設されたグルーベンハーゲン侯領を受け取った。グルーベンハーゲン侯領は同名の城にちなんで命名され、その廃墟はアインベックの南にあるローテンキルヒェンの近くにある。グルーベンハーゲンという名前は1617年頃から用いられ、それ以前の侯領の名前は不明である。侯領の名前の由来となったグルベンハーゲン城は居城ではなかった。公爵の「家」としては15世紀初頭まで現れず、公爵はヘルデンブルクに居を構えていた。相続争いのため、グルーベンハーゲン系ヴェルフ家は当初、自分たちを「ブラウンシュヴァイク公」と名乗っていた。称号に追加された「およびリューネブルグ」は、ヴェルフ家の他の系統では通常用いられているが、この家系にも用いられるようになったのは16世紀になってからである。
ハインリヒ1世には8人の息子と8人の娘がおり、それぞれにふさわしい待遇を与えなければならなかった。さらにハインリヒ1世の長男ハインリヒ2世にも少なくとも11人の子女がおり、分割相続によりさらに大きな問題を抱えることとなった。当時の多くの領地を持たない貴族の子弟のように、ハインリヒ2世の息子も領外に活路を求めた。ハインリヒ2世の息子オットーは、イタリアで傭兵として雇われ、最終的にナポリ女王ジョヴァンナ1世と結婚しターラント公となった。
グルーベンハーゲン系ヴェルフ家には、1291年から1596年までの8世代で計68人の成員がいた。ハインリヒ1世の男子の子孫40人のうち6人が早世し、12人が聖職者となり、さらに6人が海外に行ったり海外の君主に雇われたりした。残りの16人は、単独あるいは共同でグルーベンハーゲン侯領の統治者となった。グルーベンハーゲン家はいくつかの分家に分かれ、元々小さなグルーベンハーゲン侯領はさらに小さな分領(オステローデ、ヘルツベルク、ザルツダーヘルデン、アインベック)に分割された。その結果、グルーベンハーゲンの領主らはますます重要性を失い、ヴォルフェンビュッテル家やリューネブルク家に遅れをとることとなった。
1596年にフィリップ1世の末子フィリップ2世が亡くなると、グルーベンハーゲン家は断絶した。その後、グルーベンハーゲン侯領はヴォルフェンビュッテル家のハインリヒ・ユリウスが占領した。しかしリューネブルク家はこれに抗議し、1617年に帝室裁判所(Reichskammergericht)で勝利を収めた。ハインリヒ・ユリウスの息子フリードリヒ・ウルリヒは、グルーベンハーゲンをリューネブルク侯クリスティアンに譲ることを余儀なくされた。
最終的にグルーベンハーゲン侯領は1526年にフィリップ1世のもとで再統合された。しかし1596年の息子フィリップ2世が死去によりグルーベンハーゲン家は断絶し、グルーベンハーゲン侯領はヴェルフ家の諸家により争われた。ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ハインリヒ・ユリウスがグルーベンハーゲンを占領したが、その息子フリードリヒ・ウルリヒは1617年にシュパイアーの帝室裁判所(Reichskammergericht)が下した判決に従い、リューネブルク公クリスティアンにグルーベンハーゲンを譲ることを余儀なくされた。
行政区画としてカレンベルク=グルーベンハーゲン・ラントシャフト(de)が現存する。
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アインベック(1654年)
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オステローデ・アム・ハルツ(1654年頃)
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ザルツダーヘルデンのヘルデン城(1654年頃)
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グルーベンハーゲン城(1654年頃)
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ヘルツベルク城(1654年)
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ヘルツベルク城
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カレンベルク=グルーベンハーゲン・ラントシャフトの紋章
歴代領主
編集- ハインリヒ1世(在位:1291年 - 1322年)
- ハインリヒ2世(在位:1322年 - 1351年) - 兄弟と共同統治
- エルンスト1世(在位:1322年 - 1361年)
- ヴィルヘルム1世(在位:1322年 - 1360年)
- ヨハン(在位:1322年 - 1325年)
- アルブレヒト1世(在位:1361年 - 1383年) - 弟ヨハン2世と共同統治
- ヨハン2世(在位:1361年 - 1364年)[1]
- エルンスト - 1383年に共同摂政を主張、1384年に手当を受け取る
- フリードリヒ(後見人:1383年 - 1398年、共同統治:1402年 - 1421年)
- エーリヒ(在位:1398年 - 1427年)
- ハインリヒ3世(在位:1427年 - 1467年) - 弟アルブレヒト2世およびエルンスト2世と共同統治
- アルブレヒト2世(在位:1427年 - 1485年)
1479年に分割
- ハインリヒ4世(在位:1479年 - 1526年)
- フィリップ1世(在位:1486年 - 1551年)
1526年に再統合
- エルンスト3世(在位:1551年 - 1567年)
- ヴォルフガング(在位:1567年 - 1595年)
- フィリップ2世(在位:1595年 - 1596年)
脚注
編集- ^ Heinrich Rüthing: Johannes. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 10, Duncker & Humblot, Berlin 1974, ISBN 3-428-00191-5, S. 478 (電子テキスト版).
参考文献
編集- Wilhelm Havemann: Geschichte der Lande Braunschweig und Lüneburg. 3 Bände. Nachdruck. Hirschheydt, Hannover 1974/75, ISBN 3-7777-0843-7 (Originalausgabe: Verlag der Dietrich'schen Buchhandlung, Göttingen 1853–1857)
- Hans Patze (Begr.): Geschichte Niedersachsen. 7 Bände. Hahnsche Buchhandlung, Hannover 1977- (Veröffentlichungen der Historischen Kommission für Niedersachsen und Bremen, 36) (Verlagsübersicht (Memento vom 5. 3月 2012 im Internet Archive))
- Paul Zimmermann: Das Haus Braunschweig-Grubenhagen. Wolfenbüttel 1911
- Georg Max: Die Geschichte des Fürstenthums Grubenhagen. 1. Teil Schmorl Hannover 1862