グスタフ・カリクスト・フォン・ビロン
グスタフ・カリクスト・フォン・ビロン(Gustav Kalixt Fürst von Biron-Wartenberg, 1780年1月29日 - 1821年6月20日)は、ドイツ・プロイセンの貴族、軍人。ビロン=ヴァルテンベルク侯。最終階級は中将。クールラント・ゼムガレン公国の旧統治者家門ビロン・フォン・クールラント家の当主。
グスタフ・カリクスト・フォン・ビロン Gustav Kalixtvon Biron | |
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称号 | ビロン=ヴァルテンベルク侯 |
出生 |
1780年1月29日 |
死去 |
1821年6月20日(41歳没) バート・エムス |
配偶者 | マルトツァーン伯爵夫人フランツィスカ |
家名 | ビロン・フォン・クールラント家 |
父親 | カール・エルンスト・フォン・ビロン |
母親 | アポロニア・ポニンスカ |
生涯
編集クールラント公ペーター・フォン・ビロンの弟でロシア帝国軍の将軍だったカール・エルンスト・フォン・ビロン(Karl Ernst von Biron)と、その妻でポーランド貴族のアポロニア・ポニンスカ伯爵夫人(1760年 - 1800年)の間の長男として生まれた。クールラントが1795年にロシアに併合された直後にロシア陸軍の近衛士官となり、ロシア宮廷の侍従の称号を与えられたが、後にプロイセン軍に移った。
1800年に男子の無い伯父ペーターが、翌1801年に父が相次いで亡くなると、ビロン家の長子世襲財産であるシレジアのグロース・ヴァルテンベルク(現在のポーランド領ドルヌィ・シロンスク県シツフ)を相続し、ビロン=ヴァルテンベルク侯爵(Fürst von Biron-Wartenberg)の称号で呼ばれた。またクールラント公爵位請求権に対する補償として、ロシア政府から1万8000ドゥカートの年金を受給する資格も伯父から受け継いだ。一方、ザーガン公爵領に関しては従妹のヴィルヘルミーネの相続分とされた。
1806年にマルトツァーン伯爵夫人フランツィスカ(1790年 - 1849年)と結婚し、次男カリクスト(Calixt Biron von Curland)を始め2男4女の6人の子女をもうけた。グスタフ・カリクストの代から、ビロン家はプリンツ・ビロン・フォン・クールラント(Prinz Biron von Curland)の家名を名乗る様になった。1813年および1814年の第六次対仏大同盟戦争に参加し、その後はグラーツ郡(Landkreis Glatz)の郡長などを務めた。1821年にバート・エムスで死去した。
参考文献
編集- Jaromir Hirtenfeld: Der Militär-Maria-Theresien-Orden und seine Mitglieder, Wien 1857, S.1314
外部リンク
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