クロード・ド・ヴァロワ
クロード・ド・ヴァロワ(Claude de Valois, 1547年11月12日 - 1575年2月21日)は、ロレーヌ公シャルル3世の妃。
クロード・ド・ヴァロワ Claude de Valois | |
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ロレーヌ公妃 | |
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別称号 | バル公妃 |
出生 |
1547年11月12日 フランス王国、フォンテーヌブロー宮殿 |
死去 |
1575年2月21日(27歳没) ロレーヌ公国、ナンシー |
配偶者 | ロレーヌ公シャルル3世 |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ヴァロワ=アングレーム家 |
父親 | フランス王アンリ2世 |
母親 | カトリーヌ・ド・メディシス |
生涯
編集フランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの次女としてフォンテーヌブロー宮殿で生まれた。フランソワ2世は兄、シャルル9世とアンリ3世は弟である。クロードは、姉エリザベート、兄の婚約者であるスコットランド女王メアリーとともに育てられた。
1559年1月、わずか12歳でシャルルのもとへ嫁いだ。カトリーヌの生んだ子供たちの多くがそうであったように(末妹マルグリットだけが違ったという)、クロードは体が弱く、猫背と曲がり足に苦しんだ。
非常に分別のあるクロードは、母親の気に入りの娘だった。彼女はしばしばロレーヌの首都ナンシーを離れ、母の近くで過ごしていた。カトリーヌも、ロレーヌを訪れて娘に会うのを好んだ。クロードは母の意に反し、妹マルグリットにナヴァール王アンリ(のちのアンリ4世)と結婚するのは危険だと忠告していた。
1575年、クロードは同名の娘を出産後にナンシーで死亡した。
子女
編集- アンリ(1563年 - 1624年) - ロレーヌ公アンリ2世
- クリスティーヌ(1565年 - 1637年) - トスカーナ大公フェルディナンド1世妃
- シャルル(1567年 - 1607年) - ロレーヌ枢機卿及びメス司教、ストラスブール司教
- アントワネット(1568年 - 1610年) - ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン・ヴィルヘルム妃
- アンヌ(1569年 - 1576年)
- フランソワ(1572年 - 1632年) - ロレーヌ公フランソワ2世
- カトリーヌ(1573年 - 1618年) - ルミルモン女子修道院長
- エリザベート(1574年 - 1635年) - バイエルン選帝侯マクシミリアン1世妃
- クロード(1575年 - 1576年)