ギリシャ第一共和政
- ギリシャ共和国
- Ἑλληνικὴ Δημοκρατία
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独立時のギリシャの地図-
公用語 ギリシャ語 宗教 ギリシャ正教 首都 ナフプリオ - 大統領
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1828年 - 1831年 イオアニス・カポディストリアス 1831年 - 1832年 アウグスティノス・カポディストリアス 1832年 - 1833年 統治評議会 - 変遷
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ギリシャ独立戦争開始 1821年3月 ギリシャ暫定政府発足 1822年1月1日 ナヴァリノの海戦 1827年10月20日 共和政廃止、王政へ 1832年6月18日
現在 ギリシャ
ギリシャ第一共和政(ギリシャだいいちきょうわせい、ギリシア語: Α΄ Ἑλληνικὴ Δημοκρατία)は、オスマン帝国からギリシャ独立戦争の間、暫定的にギリシャ共和国に対して使われる呼称である。これは純粋に歴史学上の期間であり公式のものではなく、ギリシャ独立後、ギリシャ王国が成立する前に革命政府が組織上、そして民主的政府であることを強調するものであり、後の第二共和政、第三共和政と結びつけるためのものである。
独立戦争開始
編集1821年3月6日、アレクサンドル・イプシランチ率いるフィリキ・エテリアの部隊はロシア・ルーマニア国境のプルト川を越え、オスマン帝国領、モルドヴァへ侵入、ここにギリシャ独立戦争が開始された[1][2]。しかし、初期において列強国はこれを非難、ロシアにいたってはイプシランチの軍籍を剥奪、オスマン帝国がこれを鎮圧することを歓迎[1]、イプシランテの部隊は6月、全滅した[3][4]。しかし、イプランチの蜂起はギリシャ各地のイピロス、マケドニア、テッサリア、中央ギリシャ、ペロポネソス、エーゲ海の島々で散発的ながら民衆蜂起が続き、特にペロポネソスでの蜂起は在地オスマン帝国軍が留守にしていたことから、ギリシャにおける反乱軍の主力と化した[5][3]。
列強国がこれに冷淡な態度を取るのと裏腹に、ヨーロッパ各地ではギリシャでの蜂起を支持する人々が多数存在し、中には義勇軍としてギリシャへ向かう者まで現れ、詩人バイロン[5][6]やプーシキンもこれに参加した[7] 。ギリシャの反乱軍は独立戦争初期において、有利な戦いを展開していたが、内部では個々の勢力が乱立したため、戦争に決着をつけることができず、ペロポネソス、中央ギリシャ西部、中央ギリシャ東部でそれぞれ臨時政府を結成、また、この他にも個人、集団、地域で様々な党派が現れており、一枚板ではなかった[8][9]。彼らは目的こそ同じなれど、それ以外の点では利害が対立しており、独立後のギリシャの想像図は明らかに異なる見解を抱いていた[5]。
1821年12月、これらの問題を解決するため、エピダウロスで三政府代表者による第1回国民議会が開催され、三政府の統合が合意、その一派の指導者マヴロコルダトスが大統領に選任され、翌年1月にはギリシャ初の憲法が公布され、現代ギリシャの礎が形成された[10]。そして1822年、憲法は改正され、三政府が一つの中央政府に統合されたが、この新政府も憲法の結局、決め手となることはなく、ギリシャでは二回の内戦(1823年11月から1824年、1824年11月から1824年12月)が生じることとなった[5][10][11]。そしてギリシャは依然、列強国に認められていなかったが、この不安定な状況を改善できるのは列強国のみと判断、臨時政府は1824年、1825年と二回にわたってイギリスへ仲介を求めた[12]。
私が戦うと誓ったのはトルコ人どもであって、ギリシャ人ではないのだ。 |
内戦中、ギリシャ人女性を陵辱する兵を見てマクリヤニス将軍がつぶやいた言葉[13][11] |
大統領選出とナヴァリノの海戦
編集独立戦争も後半に至るとオスマン帝国はエジプトよりメフメト・アリの息子イブラヒム・パシャ[# 1]を派遣、クレタ島、アテネが占領され、ギリシャ軍は苦境に陥り、独立戦争の継続も困難な状態と化しつつあった。しかし、ここに至って列強国、イギリス、フランス、ロシアは態度に変化を示した[12][15]。
1825年、ギリシャの窮状を危惧したイギリス外相ジョージ・カニングはギリシャ人指導者が提案した仲裁案は拒否したが[# 2]、使節団をロシアに派遣、1826年4月、イギリスとロシアとは『ペテルブルク議定書』を調印、オスマン帝国を宗主国とするギリシャ自治国の構築を確認、ギリシャ独立戦争への介入を開始した。また、オスマン帝国に強い影響力を持っていたフランスはこれに同調、『ペテルブルク議定書』は1927年、『ロンドン条約』へ発展、三国は正式に介入を開始[15]、この介入により、列強三国はギリシャへの強い影響を持つこととなり、ギリシャ国内で『イギリス派』『ロシア派』『フランス派』に分かれ、ギリシャ国内の各派閥の傾向も明らかになった[16]。
ギリシャ臨時政府は1827年5月、トレゼネで第三回国民議会を開催、新たな憲法が公布され[15]、ロシア帝国の外務次官であるイオアニス・カポディストリアス伯爵がギリシャ大統領に選出され、ギリシャへ向かう前にヨーロッパ各地でギリシャの独立支援を訴えた。しかし、1828年1月18日、ナフプリオンの到着、ギリシャ入りしたカポディストリアス[17][18][19]は独立戦争に参加しているギリシャ人たちギリシャの未来像を描いていないとして信用しておらず、1月29日、憲法を停止させ、国民会議の延期を宣言、臨時政府を解散、それに代わり評議会パンエリオンを設立[20]、そして反乱軍を正規軍にするための改革、そして行政を行うための組織、税制、商業基盤、法体制の構築を急がさせ、さらにギリシャ民族の意識作りのために古代ギリシャの文化の教育も行った [21] [22][23][# 3]。
一方、ギリシャの自治国化を拒絶したオスマン帝国の態度は1827年10月20日、ナヴァリノの海戦を生じることとなったが、三国の艦隊がオスマン艦隊に勝利、これによりギリシャ独立戦争の雌雄は決した[26][16][15]。しかし、1828年、露土戦争が勃発したため、ギリシャの国境設定は後回しにされることとなった[# 4]。露土戦争終了後の1829年、アドリアノープル条約により、ギリシャの自治国の構築が決定、1830年、『ロンドン議定書』により、三国の保護下ながらギリシャは独立を達成、ギリシャを王国化することが決定されたが、国境の画定は1832年5月まで延期された[29][18][# 5]。
奴(カポディストリアス)はギリシャを破滅させた。奴はギリシャ(の政治)を西欧風(フランク風)に変えちまい、ギリシャは最初、西欧、トルコの割合が3対7だったのを五分五分にしてしまい、さいごには完全に西欧風にしちまいやがった。 |
セオドロス・コロコトロニス、1836年に語る[23]。 |
カポディストリアスの政治により排除された独立戦争時のギリシャ指導者たちはカポディストリアスの政治が独断専行行為と考えており、その不満は日を増すごとに増加した[29][# 6]。また、カポディストリアスの元ロシア官僚であるという背景はイギリス、フランス両国にカポディストリアスがロシアを優遇させるのではないかという危惧を抱かせていた。[# 7]そのため、カポディストリアスへの攻撃が増大、1930年にはペロポネソス南部、マニの名望家、マブロミハリス家のペトロベイスはナフプリオンにおいて議会を召集、カポディストリアスによって廃止された国民議会憲法の復帰が議論され、さらにイドラ島では蜂起への動きを見せた。これに対し、カポディストリアスはペトロベイスを逮捕したが、ペトロベイスの一族はこれに反発、1831年10月19日、カポディストリアスは暗殺された[31][28][25]。
王制への道
編集カポディストリアスの死後、弟のアウグスティノス、軍事指導者コロコトロニス、政治家コレッティスらにより暫定統治委員会が形成されたが[28]、内部対立が生じ、これは内戦へ至ることとなった。1832年春、コレッティスの攻撃により、アクグスティノスは委員会から離脱、さらにコロコトロニスは敗北した。これらの勝利をうけてコレッティスは7月、プロニアで議会を召集、憲法制定を画策したが、列強三国はこれを認めなかった。そのため、コレッティスの部隊は議会を襲撃、再びギリシャには不穏な空気が流れることとなったが、これはフランス軍が鎮圧した[32]。
その頃、列強三国はオスマン帝国大宰相府(中央政府のこと)で長時間にわたる議論の末、国境を制定、さらに世襲制の君主を抱く王国化することを決定、その王にイギリス、フランス、ロシア、いずれとも直接の系譜につながらないヨーロッパの王族が選ばれることとなった[23]。
その頃、列強三国とバイエルン政府は1832年5月7日、条約に調印、ウィッテルスバッハ家のオットー(ギリシャ名オソン1世)がギリシャの王となることが決定され、ギリシャは列強三国の『保護国』として独立することとなったが、あるイギリス人はこれを『独立なんぞお笑い種』と表した[33][# 8]。
1833年2月、オソン1世は仮首都、ナフプリオンへ到着、ギリシャ王国が成立した[35]。
注釈等
編集注釈
編集- ^ ただし、オスマン帝国の配下であったというわけではなく、メフメト・アリは事実上エジプトの支配者であり、名目上、スルタンの配下という形にすぎず、この時、オスマン帝国スルタン、マフムト2世が同盟を結び、利権を分配するという約束の元、派兵してもらったというのが正しい[14]。
- ^ この仲裁案にはギリシャがイギリスの保護領になるという提案が含まれており、イギリス、フランス、ロシア三国はそれぞれ、ギリシャの窮状を自国の利益にするのではないかと危惧しており、抜け駆けは許されない状態であった[15]。
- ^ カポディストリアスは決して独裁主義者ではなく、元々はウィーン会議で危険視されるほどの自由主義者であった[17]。彼が憲法を停止、臨時政府を解散させたのは政治的に未熟なギリシャ人たちに憲法を与えることが危険な賭けであると判断しており、自らの意思伝達を確実に行い、ギリシャ人たちを成熟させようと考えたからであった[24]。そして独立戦争時の指導者たちを任用しなかったことにはただ単に『トルコ人に代わって政治を行う』だけであり、『キリスト教徒のトルコ人』と揶揄された人々がこれまでに得た利権を手放さず、また、西欧諸国には受け入れられないオスマン帝国下でオスマン帝国の体制で成長していたギリシャの将来に危惧を抱いているいう理由も存在した[25]。
- ^ 当時確定していたギリシャ領はペロポネソス半島のみであったが、ここには列強の思惑が絡んでおり、列強はギリシャをできる限り小国にしてしまおうと考えており、ギリシャ評議会『パンエリオン』にオスマン帝国との直接交渉する権限を与えていなかった。しかし『パンエリオン』は三国に領土の拡張を訴えながらも、コリントス湾北のオスマン帝国領へ派兵、これを占領して既成事実の形成を試みたりしていた[27]。[28]
- ^ この時、確定した国境はペロポネソス半島だけではなく、中央ギリシャ(ステレア・エラダ)のアルタ=ヴォロスまでで、カポディストリアスが主張したものとほぼ同じであったが、カポディストリアスがすでに暗殺された後の話である[29]。
- ^ ただし、不満を抱いていたのは独立戦争時の指導者たちなどで、一般市民の中では『ヤニスおじさん(ヤニスはイオアニスの愛称)』と呼ばれ、独立戦争時の苦難の日々から救い出してくれる人物として人気があった[29]。
- ^ 『ギリシアを知る辞典』ではカポディストリアスがロシアの外務次官を辞任、さらに直接使えていたロシア皇帝アレクサンドル1世が死去したため、これが払拭されたとして否定しており[30] 、『ギリシア史』ではカポディストリアスの親ロシア的背景と『ロシア派』を優遇しているということでロシアが優遇される可能性を警戒したとして肯定している[28] 。
- ^ イギリスの駐ギリシャ大使サー・エドマンド・ライアンズによる『本当に独立したギリシャなぞ馬鹿げたものだ。ギリシャはイギリスでもロシアでもあって、ギリシャがロシアであることが許されない限り、イギリスでなければならぬ[34]。
脚注
編集- ^ a b 周藤、村田(2000)、p.237.
- ^ 桜井(2005)、p.278.
- ^ a b 桜井(2005)、p.279.
- ^ リチャード・クロッグ、(2004)p.32.
- ^ a b c d 周藤、村田(2000)、p.238.
- ^ 桜井(2005)、p.280.
- ^ リチャード・クロッグ、(2004)pp.50-51.
- ^ 桜井(2005)、pp.279-280.
- ^ リチャード・クロッグ、(2004)p.33.
- ^ a b 桜井(2005)、p.282.
- ^ a b リチャード・クロッグ、(2004)p.34.
- ^ a b 桜井(2005)、p.283.
- ^ 周藤、村田(2000)、p.240.
- ^ リチャード・クロッグ、(2004)p.35.
- ^ a b c d e リチャード・クロッグ、(2004)p.36.
- ^ a b 桜井(2005)、p.284.
- ^ a b 周藤、村田(2000)、p.243.
- ^ a b 桜井(2005)、p.285.
- ^ リチャード・クロッグ、(2004)p.53.
- ^ リチャード・クロッグ、(2004)p.37.
- ^ 周藤、村田(2000)、pp.243-245.
- ^ 桜井(2005)、p.286.
- ^ a b c リチャード・クロッグ、(2004)p.38.
- ^ 桜井(2005)、p.244.
- ^ a b リチャード・クロッグ、(2004)p.39.
- ^ 周藤、村田(2000)、p.241.
- ^ 周藤、村田(2000)、p.245.
- ^ a b c d 桜井(2005)、p.287.
- ^ a b c d 周藤、村田(2000)、p.246.
- ^ 周藤、村田(2000)、p.242.
- ^ 周藤、村田(2000)、p.247.
- ^ 桜井(2005)、p.288.
- ^ 桜井(2005)、p.289.
- ^ リチャード・クロッグ、(2004)p.62.
- ^ リチャード・クロッグ、(2004)p.54.
参考文献
編集- リチャード・クロッグ著・高久暁訳『ギリシャの歴史』創土社、2004年。ISBN 4-789-30021-8。
- 周藤芳幸・村田奈々子共著『ギリシアを知る辞典』東京堂出版、2000年。ISBN 4-490-10523-1。
- 桜井万里子著『ギリシア史』山川出版社、2005年。ISBN 4-634-41470-8。