キリシタン殉教記念公園
概要
編集豊後国(現在の大分県)は、安土桃山時代には、領主であった大友義鎮(宗麟)らのキリスト教への改宗の影響もあって、住民の集団改宗が進み、日本における布教の中心地のひとつとなって、最盛期には1万人を超えるキリシタンがいたと言われる。
1612年(慶長17年)に幕府直轄領にキリシタン禁教令が出され、翌年に全国に拡大されると、キリシタンの中心地のひとつであった豊後国でも厳しい取締りが行われた。1659年(万治2年)からの豊後露見(豊後崩れ、万治露見とも)では、豊後国内で一説には1,000人を超える殉教者が出た。中でも、現在、キリシタン殉教記念公園がある葛木では、約200名が殉教したとされる。
キリシタン殉教記念公園は、1960年(昭和35年)6月に、キリスト教徒であった当時の大分市長上田保が中心となって、大分県下の殉教者の信仰を偲び、その霊を慰めるために、最も多くの殉教者を出し、獄門原(ごくもんばる)と呼ばれた葛木に整備されたものである。なお、経費は九重町の篤志家によって賄われた。公園内には、北村西望によるキリシタン殉教の地の碑が建てられている。
交通
編集- 大分バス 殉教公園前停留所下車、徒歩約2分
参考文献
編集- 中川郁二『ロマンを追って 元大分市長上田保物語』 第十章「ロマンチスト」 (PDF) 大分合同新聞社、2003年2月15日(デジタル版:2008年5月16日)
外部リンク
編集- キリシタン殉教記念公園 -おおいた観光スポット検索 ツーリズム大分
- キリシタン殉教記念公園 - 大分市ロケーションオフィス