カルロ・コッチャ
カルロ・コッチャ(Carlo Coccia, 1782年4月14日 - 1873年4月13日)は、イタリアのオペラ作曲家。オペラ・セミセリアの分野で知られる。
カルロ・コッチャ Carlo Coccia | |
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基本情報 | |
生誕 |
1782年4月14日 ナポリ王国、ナポリ |
死没 |
1873年4月13日(90歳没) イタリア王国、ノヴァーラ |
ジャンル | クラシック |
職業 | 作曲家 |
生涯
編集コッチャはナポリに生まれた。この地においてピエトロ・カゼッラ、フェデーレ・フェナローリ、ジョヴァンニ・パイジエッロの下で学ぶ。パイジエッロからジョゼフ・ボナパルトへと紹介されたコッチャは、王の私的な音楽家となった。処女作となった1807年のオペラ『Il matrimonio per lettera di cambio』は失敗に終わる。しかし、翌年にパイジエッロの助力を得て書かれた2作目のオペラ『Il poeta fortunato』は好評を博した。
ヴェネツィアへと移ったコッチャは、オペラ・セミセリアへと集中するようになる。おそらく1815年の『Clotilde』がその最たるものであろう。他の作曲家の模倣、またあまりにもオペラの粗製濫造が過ぎると非難された彼は、やがてジョアキーノ・ロッシーニの台頭の影に隠れることになる。リスボンへと退いたコッチャは1820年から1823年の間をここで過ごした。その後1824年にロンドンに居を構え、ヒズ・マジェスティーズ・シアターの指揮者となった。1827年にはソプラノのジュディッタ・パスタのために『Maria Stuarda』を作曲する。彼女と有名なバスであったルイジ・ラブラーシュがキャスティングされていたにもかかわらず成功には至らず、公演はわずか4回しか行われなかった。
イタリアに帰国したコッチャはオペラ・セリアへ注力し、1833年の『Caterina di Guisa』ではいくらか成功を収めた。しかし、そのためには流行りのガエターノ・ドニゼッティやヴィンチェンツォ・ベッリーニに競り勝たねばならなかった。コッチャは『ロッシーノのためのミサ』の作曲に参加しており、「II.セクエンツィア」より第7曲「ラクリモーサ、アーメン」を担当している。
コッチャは1837年にノヴァーラで楽長となり、またトリノ音楽院の院長に就任、この地で1841年に最後となるオペラを書き上げた。彼はノヴァーラに没した。
主要作品
編集オペラ
編集- 詳細はコッチャのオペラ一覧(英語版記事)を参照
- 『La donna selvaggia』 (1813年)[1]
- 『Caterina di Guisa』 (1833年)
宗教音楽
編集宗教音楽は以下の通り[2]。
- 25のミサ曲
- カルロ・アルベルトのための鎮魂ミサ (1849年)
- 15のモテット
- 21のヴェスペレ
- 17のタントゥム・エルゴ
- 3つのミゼレーレ
- テ・デウム
- スターバト・マーテル
その他
編集その他の作品[2]。
- 大管弦楽のための序曲
- 管弦楽伴奏つきのモノローグ『Ero』
- 混声合唱、管弦楽と3つの軍楽バンドのための『Il Lusitano (o I Lusitani)』 ジョアン6世のブラジルからリスボンへの帰還を祝して (1821年)
出典
編集参考文献
編集- Anderson, K. Liner Notes to Naxos CD 8.660284-85 for the recording of Rossini's L'Italiana in Algeri.
- Mancini, R. and J.-J. Rouveroux, Le guide de l'opéra, les indispensables de la musique. Fayard, 1986 ISBN 2-213-01563-5
- Weatherson, Alexander. “Queen of dissent: Mary Stuart and the opera in her honour by Carlo Coccia”. London: Donizetti Society. 13 December 2012閲覧。