カラモンゴル語: Qara中国語: 曷剌、生没年不詳)は、ウルスト部出身で、13世紀末から14世紀初頭にかけて大元ウルスに仕えた人物。『元史』などの漢文史料では曷剌(hélà)と記される。

概要

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カラはモンゴル高原の西北隅に住まう「森林の民(ホイン・イルゲン)」の一つ、ウルスト部[1]の出身であった[2]

カラは1272年(至元9年)に初めてクビライに見えて仕えるようになり、1287年(至元24年)にはナヤンの乱鎮圧戦に従軍して功績を挙げ、白金・楮幣・甲冑・橐駝・鞍馬などを与えられた。オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の治世には高麗カラコルム江西福建などの地に使者としてしばしば赴き、大過なく務めたことから忠勇校尉・中書直省舎人に任じられた。次にクルク・カアン(武宗カイシャン)が即位すると、クビライの時代から活躍する数少ない旧臣として奉議大夫・都水監に任じるよう命じ、その翌年には嘉議大夫、更に翌年には直東水韃靼女直万戸府ダルガチと立て続けに昇進した。1314年(延祐元年)には更に資善大夫・遼陽行省左丞に任じられ、2年後の1316年(延祐3年)には栄禄大夫・大司農とされたが、間もなく63歳で亡くなった[3]

カラの息子のブカは父の存命の間からアユルバルワダ(後の仁宗ブヤント・カアン)の親衛隊(ケシクテイ)に仕え、アユルバルワダが即位すると中順大夫・中書直省舎人に任じられ、その後も中央の重職を歴任した[4]

脚注

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  1. ^ チンギス・カンの長男のジョチの遠征によってオイラトブリヤートバルグトなどとともにモンゴル帝国に投降した北西諸部族の一つで、ケシュテミなどと起源同じくする集団と考えられている(村上1976,88/95頁)
  2. ^ 『元史』の列伝では「兀速児吉氏」となっているが、屠寄の『蒙兀児史記』巻153蒙兀氏族表下などはこれを「兀児速」の書き損じとし、ウルスト部出身であるとする
  3. ^ 『元史』巻135列伝22曷剌伝、「曷剌、兀速児吉氏。至元九年、見世祖、詔入直宿衛。従討叛王乃顔、賜白金・楮幣・甲冑・橐駝・鞍馬。以其才堪使遠、成宗時使高麗、使和林、使江西・福建、不失使旨。授忠勇校尉・中書直省舎人。出監息州、遷奉訓大夫。武宗詔曰『曷剌世祖旧臣、可授奉議大夫・都水監』。明年、加嘉議大夫。又明年、佩金虎符、兼直東水韃靼女直万戸府達魯花赤。延祐元年、特授資善大夫・遼陽等処行中書省左丞、仍監其軍。三年、召還、特授栄禄大夫・大司農。卒、年六十三、贈推誠宣力保徳功臣・太師・開府儀同三司・上柱国、追封薊国公、諡安穆」
  4. ^ 『元史』巻135列伝22曷剌伝、「子不花、宿衛仁宗潜邸。及即位、特授中順大夫・中書直省舎人、改客省副使、遷太中大夫・同知典瑞院事、改左司員外郎・参議中書省事、拜中奉大夫・中書参知政事、罷為資徳大夫・宣徽院副使・同知宣徽院事、改典瑞院使、兼襲其父監軍、佩金虎符、改翰林学士。至治元年、仍翰林学士、監軍、領東蕃諸部軍事」

参考文献

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  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
  • 元史』巻135列伝22曷剌伝
  • 蒙兀児史記』巻153蒙兀氏族表下