オーガスタス・ウォール・コールコット
オーガスタス・ウォール・コールコット(Sir Augustus Wall Callcott RA、1779年2月20日 – 1844年11月25日)は、イギリスの風景画家である[1]。
オーガスタス・ウォール・コールコット Augustus Wall Callcott | |
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ジョン・リネルによる肖像画 | |
生誕 |
1779年2月20日 イギリス、ロンドン |
死没 |
1844年11月25日 イギリス、ロンドン |
略歴
編集現在のロンドン、ケンジントン・アンド・チェルシー区にあった、ケンジントン・グラヴェル・ピッツ(Kensington Gravel Pits、現代のノッティング・ヒル・ゲート)という村に生まれた[2][3]。兄のジョン・ウォール・コールコット(John Wall Callcott: 1766-1821)は良く知られた作曲家であった。はじめ音楽を学び、数年間、ウェストミンスター寺院の聖歌隊に所属したが、20歳になった時、音楽を止め、絵を学ぶために、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの美術学校の学生になり、肖像画家のジョン・ホプナーに学んだ[4] 。1799年のアカデミーの展覧会に肖像画を出展し、評価されたことが画家になる決め手となったとされる[2]。
川やその岸辺の風景を描くことを好み、1804年から数年間は風景画だけを出展した。その技量は上達し、作品に対する人気も徐々に高まった。1806年にアカデミーの準会員に選ばれ、1810年に正会員に選ばれた。
丁寧な描写のため年間に描く作品数は限られ、1805年から1810年の間は年間4点の絵画を出展し、1811年には10点、1812年には6点を出展した。その後1822年までに、通算7点の作品しか出展しなかったが、代表作とされる作品はこの時期に描かれた[2]。コールコットの風景画は同時代のターナー(1775-1851)やトーマス・ストザード(Thomas Stothard: 1755-1834)といった画家たちから賞賛された[2]。
おもにイギリスの風景を描いていたが、結婚する1827年までに、フランスやオランダを訪れ、オランダやフランドルの風景も描いた。48歳になった1827年に、イギリス海軍士官の未亡人で旅行作家として有名であったマリア・グラハム(Maria Graham: 1785-1842)と結婚した。その年、妻と初めてイタリアを旅した。イタリアから戻った後はケンジントン・グラヴェル・ピッツで暮らした。1830年にイタリアを描いた作品を出展し始め、その後、おもに外国の風景を描いた作品を出展したが、現代の評価では1927年以前の作品のほうが評価が高い。
1837年にビクトリア女王が即位した時、ナイトの称号を授与された。1843年にウィリアム・シーギエ(William Seguier: 1772–1843)の後任として王室の美術品の学芸員になった。
1844年11月に死去した。
作品
編集-
村に続く道 (1812)
ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵 -
ピサのリヴォルノからの入口 (1833)
ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵 -
渡し船を待つオランダの農民 (1834)
ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵
参考文献
編集- ^ "Callcott, Sir Augustus Wall". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/4397。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ a b c d Stephen, Leslie, ed. (1886). "Callcott, Augustus Wall". Dictionary of National Biography (英語). Vol. 8. London: Smith, Elder & Co. p. 256.
- ^ “John Linnell Kensington Gravel Pits 1811–2”. Tate Gallery. 11 May 2016閲覧。
- ^ この記述にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Callcott, Sir Augustus Wall". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 5 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 56.