オルク・テムル(Ürüg Temür, モンゴル語: Өрөг төмөр、生没年不詳)は、チンギス・カンの弟のジョチ・カサルの子孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では月魯帖木児と記される。

概要

編集

カサル家の当主はジョチ・カサルの死後イェグが次ぎ、コルコスンを経てイェスンゲとその息子のシクドゥルが承襲してきた。しかし、シクドゥルはナヤンの叛乱に協力して敗れ、その息子のバブシャがカサル家の当主とされた[1]。バブシャはクルク・カアン(武宗カイシャン)即位時に「斉王」に封ぜられており、以後カサル家当主は斉王と称するようになった。オルク・テムルは『元史』巻107宗室世系表によってバブシャの孫とされるが、息子とする説もある。

オルク・テムルが登場するのはイェスン・テムル・カアンの時代からで、泰定3年(1326年)に斉王位を継ぎ、金印を支給されている[2]。また、泰定4年(1327年)には鈔二万錠を賜っている[3]

イェスン・テムルが亡くなると、カアン位を巡ってアリギバ上都派)とトク・テムル大都派)との間で内戦が勃発し(天暦の内乱)、元朝内の諸王も二派に分かれて争った。この内戦で斉王オルク・テムルは大都側に立って参戦し、東路蒙古元帥ブカ・テムルらとともにアリギバらが籠城する上都を包囲した。オルク・テムルらは上都を攻略して遼王トクト(オッチギン家の当主)らを殺し、諸王の符印を収めることによって大都派の勝利に大きく貢献した[4]

元来オルク・テムルの属するカサル家はカチウン家、オッチギン家とともに東方三王家を構成し、最も勢力の大きいオッチギン家を中心として西方三王家に比べ政治的一体性の強い集団であった。しかし、ナヤンの叛乱と鎮圧を経て東方三王家は変容を余儀なくされ、三家の結束力は弱まっていた。カサル家の当主が内乱時にオッチギン家の当主を殺すという異常事態は、ナヤンの叛乱に始まるオッチギン家の弱体化に起因するものであると推測されている[5]

上都の陥落後、オルク・テムルらはアリギバが有していた宝をトク・テムルに奉納し[6]、この功績によってオルク・テムルは大都派の中心人物アラトナシリとともに金500両・銀2500両・鈔10000錠という大額の下賜を受けた[7]

子孫

編集

『元史』巻107宗室世系表ではオルク・テムルの子孫について記述がなく、ジョチ・カサル家はオルク・テムルを以て記述を終えている。しかし、北元時代にホルチン部を支配したボルナイは「斉王」と称しており、斉王オルク・テムルの後裔であると推測されている。

出典

編集
  1. ^ 杉山2004,205-207頁
  2. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定三年秋七月]己未……以月魯帖木児嗣斉王、給金印」
  3. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定四年秋七月]辛丑、賜斉王月魯帖木児鈔二万錠……丁巳、給斉王月魯帖木児印」
  4. ^ 『元史』巻32文宗本紀1,「[致和元年冬十月]辛丑……斉王月魯帖木児・東路蒙古元帥不花帖木児等以兵囲上都、倒剌沙等奉皇帝宝出降。梁王王禅遁、遼王脱脱為斉王月魯帖木児所殺、遂収上都諸王符印」
  5. ^ 堀尾1985,248-249頁
  6. ^ 『元史』巻32文宗本紀1,「[致和元年冬十月]庚戌、帝御興聖殿、斉王月魯帖木児・諸王別思帖木児・阿児哈失里・那海罕及東路蒙古元帥不花帖木児等奉上皇帝宝」
  7. ^ 『元史』巻32文宗本紀1,「[致和元年冬十一月]乙亥、賜西安王阿剌忒納失里・斉王月魯帖木児、知枢密院事不花帖木児金各五百両・銀各二千五百両・鈔各万錠」

参考文献

編集
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 堀江雅明「テムゲ=オッチギンとその子孫」『東洋史苑』 龍谷大学東洋史学研究会、1985年
  • 新元史』巻105列伝2