エリーザベト・ドロテア・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
エリーザベト・ドロテア・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(ドイツ語:Elisabeth Dorothea von Hessen-Darmstadt, 1676年4月24日 - 1721年9月9日)は、ヘッセン=ホンブルク方伯フリードリヒ3世の妃。
エリーザベト・ドロテア Elisabeth Dorothea | |
---|---|
ヘッセン家 | |
出生 |
1676年4月24日 神聖ローマ帝国 ヘッセン=ダルムシュタット方伯領、ダルムシュタット |
死去 |
1721年9月9日(45歳没) 神聖ローマ帝国 ヘッセン=ホンブルク方伯領、ホンブルク |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 ヘッセン=ホンブルク方伯領、ホンブルク、バート・ホンブルク城 |
配偶者 | ヘッセン=ホンブルク方伯フリードリヒ3世 |
子女 | 本文参照 |
父親 | ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ6世 |
母親 | エリーザベト・ドロテア・フォン・ザクセン=ゴータ=アルテンブルク |
生涯
編集エリーザベト・ドロテアはヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ6世と、ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公エルンスト1世の娘エリーザベト・ドロテアの間に末娘として生まれた。
1700年2月14日にブッツバッハにおいてヘッセン=ホンブルク方伯フリードリヒ3世と結婚した。エリザベス・ドロテアは非常に機知に富んでいたと言われている。作家として活躍し、ドイツ語、フランス語、ラテン語、イタリア語に加えて、ギリシャ語も話すことができた[1]。ジャン・ピュジェ・ド・ラ・セールの『Pensées sur la mort(死への思い)』をイタリア語に翻訳した[1]。エリーザベト・ドロテアはほとんどの子供を自分で育てた[1]。
エリーザベト・ドロテアはバート・ホンブルク城の地下霊廟に埋葬された。
子女
編集夫フリードリヒ3世との間に10子が生まれたが、うち8子は早世した[2]。
- 女子(1700年11月27日) - 死産
- フリーデリケ・ドロテア・ゾフィー・エルネスティーネ(1701年9月29日 - 1704年3月11日)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ(1702年11月1日 - 1703年8月19日)
- ルイーゼ・ヴィルヘルミーネ・エレオノーレ・フランツィスカ(1703年12月2日 - 1704年8月20日)
- ルートヴィヒ・グルーノ(1705年 - 1745年) - ロシア帝国元帥
- ヨハン・カール(1706年8月24日 - 1728年5月10日)
- エルネスティーネ・ルイーゼ・ドロテア・シャルロッテ(1707年1月29日 - 1707年12月19日)
- 男子(1713年2月17日) - 死産
- 子(1716年?) - 死産
- フリードリヒ・ウルリヒ・ルートヴィヒ(1721年9月2日 - 1721年11月16日)
脚注
編集- ^ a b c Johann I. von Gerning: Die Lahn- und Main-Gegenden von Embs bis Frankfurt S. 156
- ^ Philipp Dieffenbach: Geschichte von Hessen... S. 231
外部リンク
編集- Hessen-Homburg, Elisabeth Dorothea Landgräfin von. Hessische Biografie. (Stand: 15. Januar 2020). In: Landesgeschichtliches Informationssystem Hessen (LAGIS).