エベッツ・フィールド
エベッツ・フィールド(Ebbets Field )は、アメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン区にかつて存在したスタジアム。MLBブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)のホーム球場である。アメリカンフットボールでは、NFLブルックリン・ライオンズが1926年の1年限り(1年でチーム解散)、ブルックリン・ドジャースが1930年から1944年まで、AAFCブルックリン・ドジャースが1946年から1948年まで、それぞれ本拠地にしていた。
エベッツ・フィールド Ebbets Field | |
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施設データ | |
所在地 |
55 Sullivan Place Brooklyn, New York 11225 |
座標 | 北緯40度39分54秒 西経73度57分29秒 / 北緯40.66500度 西経73.95806度座標: 北緯40度39分54秒 西経73度57分29秒 / 北緯40.66500度 西経73.95806度 |
起工 | 1912年7月6日 |
開場 | 1913年4月5日 |
閉場 | 1957年9月24日 |
取り壊し | 1960年2月23日 |
所有者 | ブルックリン・ドジャース |
グラウンド | 天然芝 |
建設費 | 75万ドル |
設計者 | Clarence Randall Van Buskirk |
建設者 | Castle Brothers, Inc. |
使用チーム • 開催試合 | |
ブルックリン・ドジャース(開場 ~ 閉場)、 ブルックリン・ライオンズ(1926年)、 ブルックリン・ドジャース (NFL)(1930年 ~ 1944年)、 ブルックリン・ドジャース (AAFC)(1946年 ~ 1948年) | |
収容人員 | |
25,000人(開場時) 、32,000人(1932年) | |
グラウンドデータ | |
球場規模 |
左翼 - 348 ft (約106.1 m) 左中間 - 351 ft (約107.0 m) 中堅 - 393 ft (約119.8 m) 右中間 - 352 ft (約107.3 m) 右翼 - 297 ft (約90.5 m) バックネット - 72 ft (約21.9 m) |
フェンス |
左翼 ~ 左中間 - 9.87 ft (約3.0 m) 中堅 - 20 ft (約6.1 m) 右中間 ~ 右翼 - 38 ft (約11.6 m) |
球場の歴史
編集ブルックリン・ドジャースは、1883年に創設された球団である。1902年、チャーリー・エベッツはハリー・ファンデルホーストから球団を買収した。ハリーが球団買収にあたり出した条件は「チームをブルックリンから移転させないこと」だった。
エベッツは球団を手に入れたものの、当時の本拠地ワシントン・パークに不満をもっていた。そのため、小さい木造の球場から、鉄筋コンクリートでできた新球場に移転する計画を立てた。しかし、その計画を実行するための資金が不足していた。
エベッツはスター選手を他球団に売り払って資金を得たが、それでも貯まった金額は少なめだった。そこでエベッツは、新球場建設地を地価の安い場所にすることにした。選ばれたのは、マンハッタン橋から3マイル南に離れたゴミ捨て場だった。エベッツは1905年から、40人近い地権者一人一人と交渉を始め、1912年に新球場建設に十分な土地を取得した。
建設は1912年7月6日に開始。9ヶ月の工事を経て、1913年4月5日に開場した。右翼ポール際からバックネット裏を通って三塁側まで2層のスタンドをもち、23,000人まで収容できる新球場は、エベッツが自身の名を冠し「エベッツ・フィールド」と名付けた。同時にチーム名も「ロビンス」に変更された(1932年から「ドジャース」になる)。
イタリア産の大理石を使用した球場正面などがファンに好評で、1916年や1920年にはナ・リーグ優勝するなどチームも好調だったため、エベッツ・フィールドには多くの観客が詰めかけた。ドジャースは「ブルックリンの象徴」とも言える存在になっていった。ブルックリンを歩いていると、周りのアパートの窓からドジャースの試合を中継するラジオが流れ、試合経過が手に取るようにわかったという。
1926年には外野席が設けられ、1931年にはそれが2層になり、1938年には照明灯が設置されるなど、エベッツ・フィールドは改修を繰り返した。1946年からの10年間で、ドジャースはナ・リーグ(8球団)の全収入の44パーセントを稼いだ。
しかしその一方で、1950年からドジャースのオーナーに就任したウォルター・オマリーは、球団の移転を考え始めていた。32,000人収容の球場では(駐車場の小ささも含めて)手狭になってきたうえ、ウォール街から地下鉄で20分という立地条件に対して、夜間の治安悪化を懸念する声が出始めていた。オマリーと市は協議したが、市側の示した新しい土地と駐車場に関する提案に、オマリーは首を縦には振らなかった。
最終的にドジャースはロサンゼルスへの移転を決定した。人口や産業の伸びが期待され、飛行機の発達で移動もスムーズに行えるようになったことが決め手だった。ファンの抗議は激しかったが、決定が覆ることはなかった。1957年9月24日、エベッツ・フィールドでの最後の試合が開催されたが、観客は6,700人ほどしか集まらなかった。
1960年2月23日に取り壊されたエベッツ・フィールドの跡地には現在はアパートが建っている。そこには、かつてエベッツ・フィールドがあったことを示す記念碑が飾られている。
2009年に開場したニューヨーク・メッツの本拠地球場シティ・フィールドは、かつてのエベッツ・フィールドを規範として建設され、外観もエベッツ・フィールドを模したデザインとなっている[1]。
外野の広さの変遷
編集年度 | 左 翼 | 中 堅 | 右 翼 |
---|---|---|---|
1913 | 419 | 不明 | 301 |
1914 | 410 | 450 | 300 |
1921 | 418.75 | 450 | 296.17 |
1922 | 418.75 | 450 | 292 |
1926 | 383.67 | 450 | 301 |
1930 | 382.83 | 466 | 296.08 |
1931 | 384 | 447 | 295.92 |
1932 | 353 | 399.42 | 295.92 |
1934 | 356.33 | 399.42 | 296.5 |
1936 | 356.33 | 399 | 296.5 |
1938 | 365 | 402 | 297 |
1939 | 357 | 400 | 297 |
1940 | 365 | 400 | 297 |
1942 | 356 | 400 | 297 |
1947 | 357 | 399 | 297 |
1948 | 343 | 384 | 297 |
1953 | 348 | 384 | 297 |
1955 | 343 | 393 | 297 |
1957 | 348 | 393 | 297 |
※単位はフィート、1フィート≒30.48センチ
主要な出来事
編集- 1913年4月5日、ヤンキースとのオープン戦で開場。
- 1913年4月9日、フィリーズ戦でMLB公式戦初開催(フィリーズ 1-0 ドジャース)。
- 1924年9月16日、カージナルスのジム・ボトムリーが大リーグ記録の1試合12打点を記録。
- 1938年6月15日、この球場初のナイターでレッズのジョニー・ヴァンダー・ミーアがノーヒットノーランを達成(レッズ 6-0 ドジャース)。ヴァンダー・ミーアは前回登板の6月11日にもノーヒットノーランを達成しており、2試合連続での達成となった。大リーグ史上ただ1人しか成しえていない大記録である。
- 1939年8月26日、ドジャースとレッズのダブルヘッダー開催。この日、大リーグの試合が初めてテレビ中継された。
- 1947年4月15日、ジャッキー・ロビンソンがデビュー。大リーグ史上初の黒人選手となり、人種差別の壁を破った。
- 1949年7月12日、オールスターゲーム開催(ア 11-7 ナ)。
- ワールドシリーズ開催:1916年、1920年、1941年、1947年、1949年、1952年、1953年、1955年、1956年
- 1957年5月12日、アメリカン・サッカー・リーグのオールスターチームとハポエル・テルアビブFCの親善試合が行われる。試合前のキックインをマリリン・モンローが行った。
- 1957年9月24日、パイレーツ戦で閉場(ドジャース 2-0 パイレーツ)。
出典
編集- ^ Steven Marcus (2013年7月13日). “Citi Field stirs up memories of Ebbets Field”. Newsday 2019年8月20日閲覧。
前本拠地: ワシントン・パーク 1898 - 1912 |
ロサンゼルス・ドジャースの本拠地 1913 - 1957 |
次本拠地: ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム 1958 - 1961 |
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