エフゲニー・シャポシニコフ
エヴゲニー・イヴァノヴィチ・シャポシニコフ(Евге́ний Ива́нович Ша́пошников[1]、1942年2月3日 - 2020年12月8日)は、ソビエト連邦およびロシアの軍人、政治家。ソビエト連邦最後の国防相。航空元帥。
エフゲニー・シャポシニコフ Евгений Шапошников | |
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独立国家共同体統合軍総司令官 | |
任期 1992年2月14日 – 1993年9月24日 | |
前任者 | 統合軍創設 |
後任者 | 統合軍廃止 |
ソビエト連邦 第8代国防大臣 | |
任期 1991年8月23日 – 1991年12月21日 | |
大統領 | ミハイル・ゴルバチョフ |
総理 | イワン・シラーエフ |
前任者 | ミハイル・モイセーエフ(代行) |
後任者 | 廃止 (連邦崩壊) |
個人情報 | |
生誕 | 1942年2月3日 ソビエト連邦、ロストフ州 |
死没 | 2020年12月8日 (78歳没) ロシア、モスクワ |
国籍 | ソビエト連邦→ ロシア |
政党 | ソビエト連邦共産党 |
兵役経験 | |
所属国 | ソビエト連邦 ロシア |
所属組織 | ソビエト連邦空軍 ロシア航空宇宙軍 |
軍歴 | 1963–1993 |
最終階級 | 航空元帥 |
指揮 | 第16航空・防空軍 ソ連空軍 |
戦闘 | アフガニスタン紛争 |
経歴
編集ロストフ州に生まれる。父のイヴァン・シャポシニコフはソ連陸軍軍曹で独ソ戦に出征し、戦争終結の一週間前に戦死している。
1959年ソ連軍に入隊。1963年ソ連共産党入党。1963年ハリコフ高等航空飛行学校卒業。1969年ガガーリン名称空軍アカデミー(空軍大学)卒業。1984年ソ連軍参謀大学卒業。1985年オデッサ軍管区空軍司令官。1987年東ドイツ駐留ソ連軍空軍司令官。1988年ソ連空軍第一副総司令官。1990年7月ソ連空軍総司令官兼国防次官、ソ連共産党中央委員。
1991年8月のクーデターでは、国家非常事態委員会のメンバーとしてクーデターに関与したドミトリー・ヤゾフ国防相・ソ連邦元帥から出動を命令されるが、空挺軍のパーヴェル・グラチョフ総司令官(後にロシア連邦国防相)と相談の上、上官であるヤゾフ国防相に抗命する。クーデター失敗後、ミハイル・ゴルバチョフ大統領によって国防相に任命され、航空元帥に昇進したが、ソ連共産党を離党した。参謀総長にはウラジーミル・ロボフ上級大将が任命され、シャポシニコフ=ロボフのコンビは、ソ連軍改革に取り組もうとしたが、その矢先、ソビエト連邦の崩壊に遭遇する。
ソ連崩壊後、1992年2月から1993年6月まで、CIS(独立国家共同体)統合軍総司令官に就任し、核兵器などの戦略兵器の管理に当たる。
合同軍解散後は、1993年6月ロシア連邦安全保障会議書記。1993年9月駐ニュージーランド大使。1994年1月国営兵器輸出会社ロスヴォオルジェニエ大統領代表。1997年3月ロシア大統領顧問、補佐官。1995年10月アエロフロート社長などを歴任した。
2020年12月8日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によりモスクワで死去し、連邦戦争記念墓地に埋葬された。78歳没[2][3]。
人物
編集外部リンク
編集ウィキメディア・コモンズには、エフゲニー・シャポシニコフに関するカテゴリがあります。
- Biography(ロシア語)
脚注
編集- ^ ラテン文字転写の例:Evgenii Ivanovich Shaposhnikov
- ^ “Умер последний министр обороны СССР Евгений Шапошников” (ロシア語). ria.ru. (2020年12月8日) 2020年12月9日閲覧。
- ^ “Умер последний министр обороны СССР маршал Шапошников” (ロシア語). kommersant.ru. (2020年12月8日) 2020年12月10日閲覧。
軍職 | ||
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先代 アレクサンドル・エフィモフ |
ソ連空軍総司令官 1990年–1991年 |
次代 ピョートル・ダイネキン ロシア空軍総司令官 |
先代 創設 |
独立国家共同体統合軍総司令官 1992年–1993年 |
次代 廃止 |
公職 | ||
先代 ミハイル・モイセーエフ 国防大臣代行 |
ソビエト連邦国防大臣 1991年 |
次代 ボリス・エリツィン ロシア連邦国防大臣代行 |
先代 ユーリ・スココフ |
ロシア連邦安全保障会議書記 1993年 |
次代 オレグ・ロボフ |