エドマンド・アシリング

イングランド王エドマンド2世の息子。イングランド王位に就くことは生涯なかった。

エドマンド・アシリング英語:Edmund Ætheling [ˈɛdmənd ˈæθɪlɪŋ]:1015年ごろ - 1046年から1054年の間)とは、11世紀のウェセックス王族である。父親はエドマンド剛勇王であり、クヌート大王のイングランド侵攻に対して果敢に立ち向かったイングランド王として知られる。エドマンド剛勇王は1016年9月にアッサンダンの戦い英語版でクヌート軍に敗れ、剛勇王がウェセックスを、クヌート大王がマーシアを(あるいはノーサンブリアも)それぞれ領有する取り決めの下で両者は講和条約を締結した。しかしその2か月後、エドマンド剛勇王が死去し、クヌートはイングランド全土を治める唯一のイングランド王としての立場を固めた[1]

エドマンド

出生 1015年 – 1017年ごろ
イングランド
死亡 1046年 – 1053年ごろ
ハンガリー王国オーブダ
王室 ウェセックス家
父親 エドマンド剛勇王
母親 アルドギース英語版
配偶者 ヤドヴィガ
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イングランド王に即位したクヌート王は、自身の息子たちによる王位継承を確実なものとするべく、エドマンド剛勇王の2人の息子(エドワード・アシリングとエドマンド・アシリング)をスウェーデン王オーロフ(クヌートの義兄弟であった)の下に送り、スウェーデンにて彼らを殺害させようとしたとされる。しかし、エドワード・エドマンド兄弟はスウェーデンで殺害されることなく、ハンガリー王国に無事送り届けられ、ハンガリー王イシュトバーン1世の庇護下で亡命生活を過ごしていた。しかし1028年、クヌート大王に雇われた刺客の襲撃を受け、彼らはキエフ公国の宮廷に再び亡命を強いられた。彼らは成人するまでの間、キエフ大公ヤロスラフ賢公の後見を受けながら過ごした。1046年、彼らと同じくキエフで亡命生活を送っていたハンガリー王族アンドラーシュのハンガリー王位奪還遠征を支援し、アンドラーシュのハンガリー遠征に参加した。エドマンドはその後、ハンガリー王族と結婚したが、その後すぐ(1054年以前)に亡くなった。

誕生

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エドマンドは1015年[2]、1016年、もしくは1017年[3]のいずれかの年に誕生したとされる。エドマンドの母親はおそらくアルドギース英語版であるとされているが、彼女は母親ではなく継母であった可能性も指摘されている[2]。エドマンド剛勇王の死亡時期を考慮すると、アルドギースがたった1年で2人の息子を出産した計算になるからである。しかし、エドマンドがエドワードの兄であった可能性[4]や、また2人が双子であったとする説も提唱されている[5][6][7][8] 。この時代、父の死後に生まれた子供には父の名前を付けるという風習があったことから、エドマンドは次男、つまり剛勇王の遺児であった可能性も考えられている[9]

亡命生活

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エドマンドが長きにわたり亡命生活を送ったキエフの統治者ヤロスラフ賢公の紋章

エドマンド剛勇王が死去し、クヌート王が前々イングランド王エゼルレッド2世の未亡人エマ・オブ・ノーマンディーと結婚したことを受けて、剛勇王の遺児エドマンド・エドワード兄弟はイングランド王位継承権をはく奪された[10]。それにも関わらず、彼らは古英語で「正当な王族ではあるが、まだ王位を継承していない者」という意味の アシリング という称号を保持し続けていた[11]。エドマンド・エドワード兄弟がいまだに正当なイングランド王位継承候補者であったため、クヌートは彼らの殺害を計画した。イングランド王族のイングランドでの殺害という行為を不名誉なことであると感じたクヌートは、彼らを自身の義兄弟であるスウェーデン王オーロフの下に送り、同地での殺害を企図した[12]。しかしオーロフ王にとって、エドマンド・エドワード兄弟はかつて盟友であったイングランド王エゼルレッド無策王の孫であったことから、兄弟を殺害せずにハンガリー王イシュトバーン1世の王宮に送り届けた。北欧にはクヌート大王の影響力が行き届いていたことから、彼らの身の安全を危惧したためハンガリーに亡命させたと伝わる[13]。亡命していたとはいえ、エドマンド・エドワード兄弟はデーン人支配下のイングランド王国において指導者を失ったアングロサクソン人たちの希望の星としてあり続けた[14]

 
当時の年代記に描かれたヴァタの異教反乱の様子

985年にキリスト教に改宗した[15][16][17][18]イシュトバーン1世は、ハンガリー史上初のキリスト教を信奉する支配者としてハンガリー王位に君臨していた。そして彼はギーゼラ・フォン・バイエルンと結婚し、平和な時代を築き上げていた[19]。そんなイシュトバーンが治める平和な王国は、エドマンド・エドワード兄弟にとっては最適な亡命地であった[13]。しかし1028年、クヌート大王が放った刺客はこのハンガリーにまで達し、彼らはまたもや亡命する必要に迫られた[20]。そして兄弟はキエフ大公ヤロスラフ1世の宮廷に逃げ込んだ[note 1]。エドマンド・エドワード兄弟は、Gardorika(キエフの別名[27])にたどり着いた時には既に12歳ほどであり、ある程度成長していたと記録されている[28]。13世紀中ごろに編纂された年代記には、彼らがキエフに滞在したとする記録が一切記載されていないものの、のちに編纂されたロシアの年代記には彼らの亡命生活に関する記録が残されている[29]。彼ら兄弟を含むアングロサクソン人はローマ・カトリックを信奉していたため、キエフで信奉されていたギリシャ正教の慣習に対しては控えめな態度をとっていたとされる。ヤロスラフ公は兄弟たちが慣習の違いに関して不平不満を述べることを許容しなかった[30] 。エドマンド・エドワード兄弟は、ヤロスラフ公が自身の西方政策を推進させるにあたって非常に有用な駒であったとされる[31]

クヌート大王の後を継いでイングランド王に即位していたハーデクヌーズ王が死去したのち、イングランド人たちはエドマンド・エドワード兄弟をイングランドに呼び戻そうと試みた。しかし兄弟は1042年ごろまでキエフに滞在し続けていたことから、事態はほとんど進展していなかったことがうかがえる[32]。しかし1043年までに、20代後半であったエドマンドはヤロスラフ公の西方政策から外され、エドワードのみが「イングランドの王位や王朝に対して責任を有する立場に残された唯一の人物」になった[33] 。これはエドマンドが関係を持った高貴な女性が重大なスキャンダルを起こしてしまったからだとされる[34] 。1030年代、同じくキエフにて亡命生活を送っていたハンガリー王族アンドラーシュが勢力を回復しつつあった[35]。そして1046年、ハンガリーで勃発した非キリスト教徒による反乱英語版の最中、アンドラーシュは王位奪還を目論んでハンガリーに帰国を果たした[36]。エドマンド・エドワード兄弟は彼と共にハンガリーに向かい、アンドラーシュ軍の一員として共に戦った可能性が指摘されている[37] 。またアンドラーシュの即位式に出席した可能性も指摘されている[38]

結婚と死

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12世紀の年代記編者リヴォーのエセルレッドによれば、エドマンドはハンガリー王の娘と結婚したというが、その娘や王の名前については言及されていない。ハンガリー王シャームエルの妹や、アールパード朝出身の数多くの王女たちが候補に挙げられるが、彼の相手がイシュトバーン王の娘ではなかった可能性がある[39]。 またエドマンドの相手の名がヤドヴィガであったとする可能性も指摘されている[3][22][40]。エドマンドは結婚後まもなく[41][42]、アンドラーシュ王の軍事遠征が行われていた1046年頃に死去したと考えられている[43]。クロウランド詩篇という文献にはエドマンドが1月10日に死去したと記録されているが、その年は記されていない[44]。 しかし1054年までには亡くなっていたと考えられている。なぜなら、1054年には彼らの叔父で当時イングランド王であったエドワード懺悔王が自身の後継者としてエドワードに対してだけ帰国要請を行っているためである[45]。懺悔王は甥エドワードをイングランド王位継承者に指名しようとしたが、エドワードはロンドン到着直後に死去した[12] 。 エドワードの息子であるエドガー・アシリング(1066年に王位継承者となったが、ウィリアム征服王に忠誠を誓わされ、王位継承権を放棄した[46]) が1126年頃に死去したため、ウェセックス家の男系子孫は途絶えた[47]。 エドマンドはハンガリーに埋葬されたが、墓の正確な場所は不明である[31]

系譜

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参照

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注釈

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  1. ^ 歴史家の間では、エドマンド・エドワード兄弟は実際のところオーロフ王によってイシュトバーン王の宮廷ではなく直接ヤロスラフ賢公の宮廷に送られたのではないかとする意見も存在する[21][22]。文献の中には、兄弟はスウェーデンで成長したのち、より遅い時期にキエフに亡命したと主張する文献も存在する[23]。歴史家ガブリエル・ロネーは、エドマンド・エドワード兄弟は「最も多感な成長期をヤロスラフ公の後見の下で過ごし、彼の公国の首都で成人を迎えた」と述べている[24]。一方、イギリス人歴史家アリソン・ウィアー英語版は、「エドマンド剛勇王の息子達は確実に幼い頃に既にハンガリーに送り届けられていた」と述べている[25]。彼女の説は英国人名事典の内容に基づいている[26]

脚注

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  1. ^ Lawson 2004.
  2. ^ a b Howard 2003, p. 69.
  3. ^ a b Weir 1996, p. 28.
  4. ^ Ingham 1998, p. 234.
  5. ^ Jones 1999, p. 121.
  6. ^ Commire 2000, p. 8.
  7. ^ Smith 1953, p. 509.
  8. ^ Rushforth 2007, p. 17.
  9. ^ Jewish Historical Society of England 1971, p. 77.
  10. ^ Barlow 1984, p. 31.
  11. ^ Ronay 1989, p. 24.
  12. ^ a b Ronay 1989, p. 183.
  13. ^ a b Yonge 2010, p. 115.
  14. ^ Ronay 1989, p. 38.
  15. ^ Mahoney 2011, p. 35.
  16. ^ Cruz 1984, p. 291.
  17. ^ Byfield & Stanway 2004, p. 214.
  18. ^ Tanner 2011, p. 50.
  19. ^ "Stephen I". Encyclopædia Britannica. britannica.com. 2013年9月28日閲覧
  20. ^ Ronay 1989, p. 40.
  21. ^ Livingstone 2013, p. 65.
  22. ^ a b Panton 2011, p. 143.
  23. ^ Marshall 2003, p. 8.
  24. ^ Ronay 1989, p. 68.
  25. ^ Weir 1996, p. 29.
  26. ^ a b Lawson, M.K. (2004). "Edward Ætheling [called Edward the Exile] (d. 1057)". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/37387. 2013年9月28日閲覧 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。) ( 要購読契約)
  27. ^ Ingham 1998, pp. 239–40.
  28. ^ Ronay 1989, p. 61.
  29. ^ Ronay 1989, p. 56.
  30. ^ Ronay 1989, p. 66.
  31. ^ a b Ronay, Gabriel (1984). “Edward Aetheling: Anglo-Saxon England's Last Hope”. History Today 34 (1). ISSN 0018-2753. http://www.historytoday.com/gabriel-ronay/edward-aetheling-anglo-saxon-englands-last-hope. 
  32. ^ Ronay 1989, p. 194.
  33. ^ Ronay 1989, p. 76.
  34. ^ Ronay 1989, p. 82.
  35. ^ Kristó & Makk 1996, p. 69.
  36. ^ Engel 2001, p. 59.
  37. ^ Gillingham 2003, p. 35.
  38. ^ von Redlich 1940, p. 107.
  39. ^ Ronay 1989, p. 107.
  40. ^ Searle 1899, p. 350.
  41. ^ Ronay 1989, p. 108.
  42. ^ Ingham 1998, p. 236.
  43. ^ Bodleian Library 1985, p. 368.
  44. ^ Keynes 1985, pp. 359–364.
  45. ^ Brown 2000, p. 109.
  46. ^ Panton 2011, pp. 138–9.
  47. ^ Chambers 1952, p. 82.
  48. ^ Williams 2003, p. 24.
  49. ^ Stafford 1989, pp. 52–3.

文献

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外部リンク

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