エドゥアルト・クルツバウアー
エドゥアルト・クルツバウアー(ドイツ語: Eduard Kurzbauer, 1840年3月2日 - 1879年1月13日)はオーストリアの画家、版画家である[1] 。ミュンヘンなどで活動し、風俗画を描いた。
エドゥアルト・クルツバウアー Eduard Kurzbauer | |
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作者不詳の肖像画 | |
生誕 |
1840年3月21日 オーストリア帝国 レンベルク |
死没 |
1879年1月13日 (38歳没) ドイツ帝国 バイエルン王国 ミュンヘン |
略歴
編集現在のウクライナのリヴィウ(当時はオーストリア帝国のレンブルク)で生まれた。1856年からウィーンの版画学校(Anstalt von Reiffenstein)で版画を学ぶが、そこでの教育に満足できず、1857年にウィーン美術アカデミーに移った。学資が続かなくなり、1861年にアカデミーを止めて、友人たちに支援される苦しい修業時代を送った[1]。1867年になって、作品が注目されるようになり、1868年にミュンヘン美術院に移り、カール・フォン・ピロティのスタジオでも2年間学ぶことができるようになった[2] 。ミュンヘンではハンス・マカルト(1840-1884)やフランツ・デフレガー(1835-1921)といったオーストリア出身の画家と友人になった。1870年代になって風俗画が人気になり、絵の売り上げや、ベルタ・ヴェークマンといった画家の個人指導をした報酬で念願だったローマやナポリへの修行の旅をすることができた。
イタリアで感染したとされる病気が原因で1879年に38歳でミュンヘンで病没した[1]。
ウィーンの第2区のレオポルトシュタットの通りの名「Kurzbauergasse」は1889年にクルツバウアーに因んで命名された。
作品
編集-
避難民(1870)
美術史美術館蔵 -
嵐のような婚約の日(1874)、個人蔵
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少年の肖像
オーストリア・ギャラリー蔵
脚注
編集- ^ a b c Friedrich Pecht (1883). "Kurzbauer, Eduard". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 17. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 430–431.
- ^ 02418 Eduard Kurzbauer, Matrikelbuch 1841-1884; (Zugriff vom 24 September 2009)
参考文献
編集- Constantin von Wurzbach: Kurzbauer, Eduard. In: Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich. 28. Theil. Kaiserlich-königliche Hof- und Staatsdruckerei, Wien 1874, S. 361 (Digitalisat).
- Er ist todt. In: Die Gartenlaube. Heft 1, 1880, S. 19/20 (Volltext [Wikisource] – Nachruf).
- Friedrich Pecht: Kurzbauer, Eduard. In: Allgemeine Deutsche Biographie (ADB). Band 17, Duncker & Humblot, Leipzig 1883, S. 430 f.
- Schöny: Kurzbauer Hans Eduard. In: Österreichisches Biographisches Lexikon 1815–1950 (ÖBL). Band 4, Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften, Wien 1969, S. 369.