エディ・ヘイゼルEddie "Maggot Brain" Hazel1950年4月10日 - 1992年12月23日)はアメリカ合衆国ミュージシャンギタリストニューヨーク市ブルックリン区生まれ。主に1970年代前半にPファンク軍団の一員として活躍し、ファンクブラックロック創成に携わった。

エディ・ヘイゼル
生誕 (1950-04-10) 1950年4月10日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区
出身地 ニュージャージー州プレインフィールド
死没 (1992-12-23) 1992年12月23日(42歳没)
ジャンル ファンク
ソウル
サイケデリック・ロック
サイケデリック・ソウル
担当楽器 ギター
活動期間 1967年 - 1992年
共同作業者 ファンカデリック
パーラメント

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第43位、2011年の改訂版では第83位。

来歴

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ニューヨーク市ブルックリンに生まれたが、母グレース・クック (Grace Cook) はドラッグにあふれた環境の悪いところで育てることを嫌い、ニュージャージー州プレインフィールドに移り住んだ。母が仕事でブルックリンと行き来する生活を送る間、幼いエディは兄からクリスマスプレゼントにもらったギターに没頭するようになり、また教会で歌うようになった。12歳の時にギタリストベーシストビリー・ネルソンに出会い、またドラムを加えてトリオで一緒に演奏するようになった。主にモータウンものを演奏していたという。

ドゥーワップグループ、ザ・パーラメンツパーラメントの前身)を率いるジョージ・クリントンの友人であったビリー・ネルソンは、1966年ギタリストとしてザ・パーラメンツのバックバンドに参加した。ビリーはエディをバンドに誘い、当時17歳だったエディは最初母に反対されたものの、ジョージとビリーの説得により、1967年ジョージと活動を始めることとなった。エディがギタリストとして加入したため、ビリーはベーシストに転向した。エディはツアー先で知り合ったティキ・フルウッドをグループのドラマーに誘い、またリズムギターにタウル・ロスが、キーボードにバーニー・ウォーレルがメンバーに加わった。このバンドは、ザ・パーラメンツの契約レーベル、レヴィロットとの契約上の問題からザ・パーラメンツの名称が使えず、ファンカデリックとしてウェストバウンドレーベルと1968年に契約し、活動を始めた。

エディのギターはジミ・ヘンドリックスにもよく似た、ファズ、フェイザーやテープエコーといったエフェクターを多用したハードかつ「黒い」(伝統的な黒人音楽のノリを持った)ギターサウンドであり、ファンカデリックはこのギターサウンドを中心としたファンク・ブラックロックミュージックを展開した。エディはファンカデリックでリードギターを担当し、多くの曲でボーカル、作曲にも関わった。ファンカデリックにおいてエディは幾多の作曲を行っているが、多くは彼の母親であるグレース・クック名義である。これは、印税が母の元に入るようにという彼の計らいだったようである。

ファンカデリック1970年発表のサードアルバム『マゴット・ブレイン Maggot Brain 』収録の同タイトル曲は10分超のエディのギターソロをフィーチャーしており、スローテンポのギターアルペジオの上を悲しく、激しく高揚するギターソロが縦横無尽に駆け巡るもので、ジョージ・クリントンの「今、母親が死んだと思って弾け」との助言に従って演奏したものという。 ファンカデリック1974年発表の6枚目のアルバム『スタンディング・オン・ザ・ヴァージ・オブ・ゲッティング・イット・オン Standing on the Verge of Getting It On 』は全ての収録曲の作曲がエディの手によるものであり(クレジットはGrace Cook名義)、エディのハードなギターが前面に出たサウンドであった。

1974年、エディはスチュワーデスに対する暴行および薬物不法所持にて1年間の懲役を受けた。その間ジョージはグループのギタリストに、新たにゲイリー・シャイダーマイケル・ハンプトンを迎え入れた。そのため、エディがファンカデリック1975年発表のアルバム『レッツ・テイク・イット・トゥー・ザ・ステージ Let's Take It to the Stage 』の録音に戻ってきたときはリードギターの座は奪われており、エディのギターがフィーチャーされることはほとんど無くなってしまう。

1977年、Pファンクメンバーの協力を得てソロアルバム『ゲーム・デームス・アンド・ギター・サングス Game, Dames & Guitar Thangs 』を発表。生前唯一のソロ作品となった。

1978年、ファンカデリックにとって最大の成功を収めたアルバム『ワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ One Nation Under A Groove 』が発表されるが、この作品より完全に不参加、脱退状態となる。

その後は時折Pファンク関連の仕事をする以外は音楽シーンから遠ざかり、1992年12月23日42歳で肝不全により死去した。

楽器

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フェンダーストラトキャスターを主に使用した。

ディスコグラフィー(代表的参加アルバム)

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ソロアルバム

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  • ゲーム・デームス・アンド・ギター・サングス Game, Dames & Guitar Thangs (Warner Brothers, 1977)
  • パープル・ヘイゼル Rest In P (P-Vine, 1994)
死後発表された未発表曲集

ファンカデリック

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  • ファースト・アルバム Funkadelic (Westbound, 1970)
  • フリー・ユア・マインド Free Your Mind...And Your Ass Will Follow (Westbound, 1970)
  • マゴット・ブレイン Maggot Brain (Westbound, 1971)
  • アメリカ・イーツ・イッツ・ヤング America Eats Its Young (Westbound, 1972)
  • コズミック・スロップ Cosmic Slop (Westbound, 1973)
  • スタンディング・オン・ザ・ヴァージ・オブ・ゲッティング・イット・オン Standing on the Verge of Getting It On (Westbound, 1974)
  • レッツ・テイク・イット・トゥー・ザ・ステージ Let's Take It to the Stage (Westbound, 1975)
  • ハードコア・ジョリーズ Hardcore Jollies (Warner Bros., 1976)
  • テイルズ・オブ・キッド・ファンカデリック Tales of Kidd Funkadelic (Westbound, 1976)

テンプテーションズ

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  • A Song For You (Gordy, 1975)

その他

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ボニー・ポインター
  • Bonnie Pointer 2 (Motown, 1979)
1曲に参加し、ギターを弾く。
アクアリアン・ドリーム
  • Chance To Dance (Elektra, 1979)
1曲に参加し、ギターを弾く。
トニー・テリー
  • Forever Yours (Epic, 1987)

外部リンク

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