ウード (西フランク王)
ウード(Eudes、852年以降 - 898年1月3日)は西フランク国王。885年から886年にかけパリを包囲したノルマン人を撃退した。
ウード Eudes | |
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西フランク国王 | |
ウード | |
在位 | 888年 - 898年 |
戴冠式 | 888年2月29日、コンピエーニュ |
別号 | パリ伯 |
出生 |
852年以降 |
死去 |
898年1月3日 ラ・フェール |
埋葬 | サン=ドニ大聖堂 |
配偶者 | テオドラード・ド・トロワ |
子女 |
ギー ラウル アルヌール |
家名 | ロベール家 |
父親 | アンジュー伯ロベール |
母親 | アデライード・ド・トゥール |
宗教 | カトリック教会 |
生涯
編集ネウストリア侯ロベール・ル・フォールとトゥール伯ユーグの娘アデライードとの間に長男として生まれた。弟に後のロベール1世がいた。母の姉妹エルマンガルドは皇帝ロタール1世と、ベルトはパリ伯ジェラール2世とそれぞれ結婚している。
866年の父の没後にネウストリア侯位を相続したが、カロリング朝のシャルル2世(禿頭王)は868年に侯位を剥奪し、サン=ジェルマン修道院長ユーグ(Hugues l'Abbé)に与えた[1]。882年か883年に、サン=ジェルマン修道院長ユーグの許可とパリ司教ゴズラン(Gozlin)の支持を得て、パリ伯の地位を得た[2]。
884年にカルロマン2世が没した翌年、ウードはトゥール伯・ブロワ伯・アンジェ伯となり、886年、トゥールの聖マルタン修道院長の地位も回復した[3]。
パリ伯ウードは、885年から886年に掛けての冬、パリを包囲したノルマン人を撃退し、シャルル2世が廃位された翌年の888年2月、領邦諸侯と司教等に推されて西フランク王国の王位に就き、コンピエーニュで戴冠した[4]。カロリング一族でない最初の王だった。彼はヴァイキングと戦い続け、アルゴンヌのモンフォーコンで更に敵を破った[4]。
しかし、ウード王の支配は徹底しなかった。シャルル2世の子シャルル(後のシャルル3世)は、893年にランスのサン=レミ修道院(l'abbaye Saint-Remi)で聖別され[5]、彼を担ぐ一派がウードと対立した。
東フランク王アルヌルフははじめウードを承認していたが、894年に至ってシャルルへの支持を宣言した[4]。3年続いた両派の紛争の後、ウードはシャルルにセーヌ北部を引き渡し、かつ、シャルルを次の王に指名した[4][6]。
ウードは898年1月1日、ピカルディのラ・フェール(La Fère)で没し、サン=ドニ大聖堂に埋葬された[7]。テオドラード・ド・トロワと結婚したが、子は皆早逝した。
脚注
編集- ^ Michel Parisse et Xavier Barral I Altet, Les Robertiens : ascension, couronnement et sacre dans Le roi de France et son royaume, autour de l'an Mil, actes du Colloque Hugues Capet 987-1987, La France de l'an Mil, Paris-Senlis, 22-25 juin 1987, Picard, 1992, p. 20.
- ^ Laurent Theis, L'héritage des Charles, Seuil, 1990, p. 117
- ^ Claude Gauvard, La France au Moyen Âge, PUF, 1996, p. 117
- ^ a b c d Encyclopædia Britannica (11th ed.)
- ^ この場合の『聖別』は、カトリック教会や聖公会などで使用される神学用語の聖別と必ずしも一致せず、『サン=レミ修道院で塗油される事で王にふさわしい超自然的な力を得る』という、ルートヴィヒ1世以来のしきたりであった(柴田(2006)、pp. 19 - 21)。
- ^ 柴田 他(1995)、p. 175
- ^ Richer de Reims Histoire Images 53, p. 31 - 55
参考文献
編集- 柴田三千雄 他 『世界歴史大系 フランス史 1』 山川出版社、1995年
- 堀越孝一・三浦一郎 『現代教養文庫 825 世界の歴史 5 中世ヨーロッパ』 社会思想社、1974年
- 柴田三千雄 『フランス史10講』 岩波新書、2006年
この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "ODO". Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
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