ウラジーミル・ヤコブレフ
ウラジーミル・アナトリエヴィチ・ヤコブレフ(ヤコヴレフ、ロシア語: Влади́мир Анато́льевич Я́ковлев、ラテン文字転写の例:Vladimir Anatolyevich Yakovlev、1944年11月25日 - )は、ロシアの政治家。サンクトペテルブルク市長、ロシア連邦南部連邦管区大統領全権代表、副首相、地域発展相を歴任。
ウラジーミル・ヤコブレフ (ヤコヴレフ) Владимир Анатольевич Яковлев | |
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生年月日 | 1944年11月25日(79歳) |
出生地 |
ソビエト連邦 ロシア共和国ヤクート自治共和国(現在のサハ共和国)オリョークミンスク |
出身校 | レニングラード機械組立専門学校、北西通信制工業大学夜間部 |
前職 | 技師、サンクトペテルブルク副市長、第一副市長 |
所属政党 | 祖国・全ロシア |
サイン | |
在任期間 | 2004年9月14日 - 2007年9月24日 |
在任期間 | 2004年3月9日 - 2004年9月13日 |
在任期間 | 1996年6月 - 2003年 |
1944年11月25日ソビエト連邦ロシア連邦共和国のヤクート自治共和国(現在のロシア連邦サハ共和国)のオリョークミンスクに生まれる。レニングラード機械組立専門学校を経て、1974年北西通信制工業大学夜間部卒。
1965年から1968年まで徴兵され軍務につく。その後は、レニングラード州の建設部門や住宅建設部門で技師として勤務する。アナトリー・サプチャーク・サンクトペテルブルク市長の下で1993年同市経済委員会議長をはじめとして副市長、第一副市長を歴任する。ウラジーミル・プーチンとはサプチャークのもとで働く同僚であったが、1996年6月の市長選挙に現職のサプチャークに挑戦する形で立候補し、サプチャークを破って当選する。プーチンは、サプチャークが敗北したため、サンクトペテルブルク市行政府を離れ、アナトリー・チュバイスやパーヴェル・ボロジンらの引きで連邦大統領府に入ることになり、その後、大統領になるきっかけとなった。また、プーチンは、ヤコブレフの選挙運動が不正であったと批判して、一時両者の関係は悪化している。1999年の下院国家会議選挙では、エフゲニー・プリマコフ元首相、ユーリ・ルシコフ・モスクワ市長らの政治ブロック「祖国・全ロシア」に参加した。しかし「祖国・全ロシア」がプーチン旋風の影響で、第3党と低迷、選挙で敗れるとルシコフとともに、プーチン支持に回った。
2000年5月14日サンクトペテルブルク市長選挙に立候補し、再選される[1]。しかし、2003年のサンクトペテルブルク建都300周年に当たり粉飾決算の疑惑を問われて市長を辞職した。ロシア連邦政府の住宅公共サービス担当副首相に就任し、後任のサンクトペテルブルク市長には、連邦政府から指名されたワレンチナ・マトヴィエンコが選挙を経て就任した。2004年3月から南連邦管区大統領全権代表に就任。「南方への流刑」とも評する向きがあった。2004年9月連邦政府の初代地域発展相に任命された。
関連項目
編集脚注
編集- ^ “「恩人を裏切るなら出世させる」そんな誘いに若きプーチンはどう応じたか 佐藤優「だから彼は独裁者になれた」”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2021年5月29日). 2023年3月15日閲覧。
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