メーワール王国

ラージプートの旧シソーディヤー朝の王朝
ウダイプル藩王国から転送)
メーワール王国
Mewar Kingdom
8世紀 - 1947年 インド
メーワール王国の国旗 メーワール王国の国章
(国旗) (国章)
メーワール王国の位置
公用語 ヒンディー語
首都 チットールガルウダイプル
ラーナーマハーラーナー
xxxx年 - xxxx年 不明
面積
1941年33,517km²
人口
1941年6,500,000人
変遷
成立 8世紀
滅亡1947年
通貨ルピー

メーワール王国(メーワールおうこく、ヒンディー語:उदयपुर、英語:Mewar Kingdom)は、インドラージャスターン地方に存在したヒンドゥー王朝8世紀 - 1947年)。ウダイプル藩王国とも呼ばれる。

王宮から行進する行列

歴史

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8世紀、グヒラ族によってメーワール王国が建国された。

1303年、ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジーにより首都チットールガルを攻撃され、一時的に滅亡する[1]。だが、 1326年にハンミーラによって再興された[2]

1535年、グジャラート・スルターン朝のバハードゥル・シャー率いる軍勢に首都チットールガルを包囲された。だが、このときはムガル帝国の皇帝フマーユーンの軍勢がグジャラート・スルターン朝の軍勢を破った。

メーワール王ウダイ・シング2世は皇帝アクバルへの服属を拒否したため、1567年に首都チットールガルを包囲され、翌年2月に首都は陥落した[3][4]。その後、ウダイ・シング2世は首都をウダイプルに遷都して抵抗し、その争いは息子のプラタープ・シングに引き継がれた[4][3]

1605年にアクバルが死亡したのちも抵抗を続けていたが、1614年2月に帝国との間に講和を結んだ[4]。これにより、メーワール王国はその半独立的な地位を認められた[5]

1679年7月、アウラングゼーブがマールワール王国の直轄地化、並びにジズヤを復活したことに抗議して、メーワール王国はマールワール王国とともに反乱を起こした[6]

1680年1月、帝国軍に首都ウダイプル、旧都チットールガルを奪取されたが[7]、翌1681年9月に講和を結んだ。

1818年、メーワール王国はイギリスと軍事保護条約を締結し、イギリスに従属する藩王国となった(ウダイプル藩王国)。

1947年8月15日インド・パキスタン分離独立の際、ウダイプル藩王国はインドへと併合された。

脚注

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  1. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.96
  2. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.28
  3. ^ a b 辛島『新版 世界各国史7 南アジア史』、p.273
  4. ^ a b c 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.154
  5. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.199
  6. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.
  7. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.40

参考文献

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  • 辛島昇『新版 世界各国史7 南アジア史』山川出版社、2004年。 
  • 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。 
  • サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。 
  • ビパン・チャンドラ 著、栗原利江 訳『近代インドの歴史』山川出版社、2001年。