ウィリアム・アドルフ・ブグロー

フランスの画家

ウィリアム・アドルフ・ブグロー(William Adolphe Bouguereau, 1825年11月30日 - 1905年8月19日)は、フランス画家ラ・ロシェルに生まれる。19世紀フランスのアカデミズム絵画を代表する画家で、神話や天使少女を題材とした絵画を多く残した。日本語では「ブーグロー」とも表記する。

ウィリアム・アドルフ・ブグロー
自画像 (1879年)
生誕 (1825-11-30) 1825年11月30日
フランス王国ラ・ロシェル
死没 1905年8月19日(1905-08-19)(79歳没)
フランスの旗 フランス共和国、ラ・ロシェル
国籍 フランスの旗 フランス
教育 エコール・デ・ボザール
フランソワ=エドゥアール・ピコ
著名な実績 アカデミック美術
代表作 地獄のダンテとウェルギリウス(1850年)
小川のほとり(1875年)
ヴィーナスの誕生(1879年)
バッカスの幼年時代(1884年)
運動・動向 アカデミック美術
受賞 ローマ賞
レジオンドヌール勲章
選出 美術アカデミー
後援者 ポール・デュラン=リュエル
影響を受けた
芸術家
ドミニク・アングル

経歴

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ヴィーナスの誕生 (1879)

ブグローは1825年、フランス西部の大西洋に面した港町・ラ・ロシェルに生まれた。1846年、パリへ出てエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に学ぶ。1850年にはローマ賞(新進美術家に与えられる最高の賞)を得て公費でイタリアに留学し、同地に4年間滞在した。1876年には美術アカデミー会員となり、1888年にはエコール・デ・ボザールの教授に就任している。

画風はアングルなどの新古典主義の流れを汲む伝統的なもので、キリスト教、神話、文学などに題材をとった構想画のほか、肖像画を数多く残している。構図や技法はアカデミックなものだが、官能的な裸婦像、可憐な子どもの像、憂愁を帯びた若い女性の像などに独特の世界を築いている。甘美で耽美的な彼の画風は当時の人々の好みに合ったと見え、生前には彼の名声は非常に高かったが、20世紀以降、さまざまな絵画革新運動の勃興とともにブグローの名は次第に忘れられていった。再評価されるようになるのは20世紀末のことである。

なお、ブグローは作品にはWilliam Bouguereauと署名しているところから「ウィリアム」が普段使っていた名前と思われるが、フルネームについてはWilliam Adolphe BouguereauともAdolphe William Bouguereauとも綴る。

忘却と再評価

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19世紀以前のフランスの画家の出世コースは、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)で学び、ローマ賞を得て公費でイタリアに留学し、サロン(官展)に毎年出品し、美術アカデミーの会員となり、エコール・デ・ボザールの教授になるというのが典型的なパターンであった。ブグローはこのような当時の画家の絵に描いたようなエリートコースを歩んだ画家であった。印象派が生まれた19世紀末のフランス画壇において中心を占めていたのはラファエロプッサンらの系譜に連なるアカデミスムの絵画であり、ブグローもその一員であった。20世紀に入り、印象派ポスト印象派キュビスム(立体派)などのモダニスムの台頭とともに、これに対抗する旧勢力としてのアカデミックな絵画は等閑視されるようになり、やがて美術史から忘れ去られた存在となった。しかし、20世紀末頃からアカデミスム絵画を再評価し、美術史の上で正当に位置付けようとする動きが高まり、ブグローについても再評価がなされるようになった。1984年にパリのプティ・パレ美術館で行われた回顧展以降、ブグローへの評価と関心が高まり、彼は19世紀フランスを代表する画家の一人と見なされるようになっている。

代表作(制作年順)

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1850年代

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1860年代

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1870年代

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1880年代

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1890年代

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1900年代

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制作年不詳

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ブグローの教えた学生(一部)

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脚注

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  1. ^ 宮下規久朗『しぐさで読む美術史』筑摩書房、2015年、74頁。ISBN 978-4-480-43318-3 

関連項目

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外部リンク

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