イヴァン・スヴィト
イヴァン・スヴィット (イヴァン・スヴィトラノフ) (1897年4月27日, ハルキウ州— 1989年3月 8日, シアトル) はハルビンのウクライナ人コミュニティの新聞『満州通信』の編集者、ジャーナリスト、歴史家、郵趣家、ウクライナ独立運動活動家などの多面な活動をした人物である。また在満州の日本軍部と在ハルビンのウクライナ居留民の仲介役となった[1][2]。
イヴァン・スヴィット | |
---|---|
生誕 |
イヴァン・スヴィトラノフ 1897年4月27日 ウクライナ、ハルキウ州、クピャンスク市 |
死没 |
1989年3月8日 シアトル |
国籍 | ウクライナ |
民族 | ウクライナ人 |
教育 | ハルキウ神学校、ハルキウ大学物理学部 |
職業 | 編集者、ジャーナリスト、歴史家、ウクライナ独立運動活動家、郵趣家 |
配偶者 | マリア・スヴィット |
生涯
編集イヴァン・スヴィットは、1897年4月27日にウクライナのハルキウ州クピャンスク市で生まれた。生まれた時の名前はイヴァン・スヴィトラノフ。ハルキウ神学校で学んだが、宗教への興味を失い、ハルキウ大学物理学部の数学科に入った[1]。
1917-1918年にアメリカへ渡りたいと思うようになり、極東で司祭をしていたおじちゃんを頼ってウラジオストクに行き、海軍の本部や通信社などで働いた。
1922年に赤軍が来るとスヴィットはハルビンに亡命した。その後、ウクライナ語による「正直な言葉」雑誌が発行されるようになると、ウクライナ人らしく聞こえるように名字を短くしました。イヴァン・スヴィットというペンネームで協力するようになった。
1930年代以降, ハルビンでは、スヴィットはとくに日本人に接触していた。
彼は同地で満鉄ハルビン事務所との協力を始め、その関係は第二次世界大戦終結まで続いた。彼はハルビンにおいてウクライナ関連ページを担当する記者を経て、「ウクライナ民族の家(ウクライナ・クラブ)の運営に関わり、ウクライナ人コミュニティで影響力を保つ一方、ソ連、ウクライナ、日本に関する時事問題をはじめ歴史についての著作を多数発表した[3]。
ドイツとソ連の戦争が始まった1941年の夏にスヴィットは上海に引越、ハルビンで開いていた切手店を再開した。戦後はアメリカに移住した。
1972年スヴィットが渡米後に書いた著書『日本とウクライナの相互関係1903-1945年』。
スヴィットによれば、ウクライナ人と日本人との政治的関係は日露戦争に始まり、第一次世界大戦期には、ウラジオストクなどで接触を続け、シベリア出兵時にも両者の接触があったが、それらはあまり大きな意味を持たなかったとしている。
作品
編集- 「ハルビンにおけるウクライナの家:ウクライナ移民の一年半の活動日記」)(1933年)
- 「ウクライナの極東」(1934年)
- 「アジアにおけるウクライナ人運動小史」(1937年)
- 「ウクライナと日本の相互関係1903―1945」
- 「ウクライナと日本の相互関係1903―1945:歴史的概観と観察」
- 「チタにおけるウクライナ人裁判(1923―1924年)」(1964年) など。
脚注
編集外リンク
編集- Хоменко Ольга Анатоліївна. Далекосхідна одіссея Івана Світа. - Київ: Laurus, 2021. - 584 c.