イワン・イリイチ・モジューヒンИван Ильич Мозжухин, 1889年9月26日 - 1939年1月18日)は、ロシア帝国(現ロシア)・フランス俳優脚本家であり、フランスの映画監督撮影監督である。フランスではイヴァン・モジュキーヌIvan Mosjoukine)、アメリカ合衆国ではジョン・モスキンJohn Moskin)と名乗った。

イワン・モジューヒン
Ivan Mozzhukhin
Ivan Mozzhukhin
1917年9月
本名 イヴァン・イリイチ・モジューヒン
Иван Ильич Мозжухин
別名義 イヴァン・モジュキーヌ
(Ivan Mosjoukine)
ジョン・モスキン
(John Moskin)
生年月日 (1889-09-26) 1889年9月26日
没年月日 (1939-01-18) 1939年1月18日(49歳没)
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 サラトフ州(現ロシアの旗 ロシア ペンザ州)コンドル
死没地 フランスの旗 フランス オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌ
国籍 ロシア帝国の旗 ロシア帝国
フランスの旗 フランス
職業 俳優脚本家映画監督撮影監督
ジャンル サイレント映画トーキー
活動期間 1908年 - 1936年
活動内容 1908年 映画に出演
1920年 フランスに移住
1921年 同地で映画を監督
1926年 アメリカに進出
1928年 ヨーロッパに帰る
配偶者 ナタリー・リセンコ
主な作品
スペードの女王
ペェター・セルギー
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人物・来歴

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1889年(明治22年)9月26日、ロシア帝国のサラトフ州(現在のロシアペンザ州)、ペンザ近くの小村コンドルに生まれる。

モスクワに出て、モスクワ大学で法学を学ぶ。1908年(明治41年)、映画に出演をしたのをきっかけに、友人と演劇を始める。1911年(明治44年)、ハンジョンコフ商会を率いるアレクサンドル・ハンジョンコフが製作したワーシリー・ゴンチャロフ監督の映画『セヴァストポリの防衛』に出演する。

 
ペェター・セルギー』(1917年)。

1917年(大正6年)の二月革命勃発を受けて、ハンジョンコフとともにクリミア半島ヤルタに移住、白軍に守られて映画出演をつづける。

1920年(大正9年)、監督のアレクサンドル・ヴォルコフらとともにフランスに移住した。ロシア帝国の時代に、すでに80本以上の商業映画に出演したが、ソビエト連邦成立後は、過去に出演した作品のすべてが没収されて国有化され、検閲された。翌1921年(大正10年)、同地で映画『謝肉祭の夜』を監督、監督としてもデビューした。マルセル・レルビエアベル・ガンスの映画に出演し、ルドルフ・ヴァレンティノに比され「ロシアのヴァレンティノ」と称された。

1926年(大正15年)、ユナイテッド・アーティスツに接触してアメリカに進出、エドワード・スローマン監督の『降伏』に出演するが、翌1928年(昭和3年)にはヨーロッパに帰り、ドイツを中心に映画に出演した。

1936年(昭和11年)、ジャック・ド・バロンセリ監督のフランス映画『地中海』に脇役で出演したのが最後の映画出演となり、同作は日本でも公開された。1939年(昭和14年)1月18日、フランスのオー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌで死去した。満49歳没。

家族

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長兄のアレクサンドル・モジューヒン(1878—1972)はバリトン歌手。ロシア革命後もロシアに留まり、ソ連オペラ界のスターのひとりとなった[1]。1920年代にはたびたび欧米で公演し、ハルピンを経由して1924年には来日し、山田耕筰の手配で日本各地で独唱会を催し、チャイコフスキーリムスキー・コルサコフのオペラのアリアなどを披露した[1]。次兄・三兄ともロシア帝国軍将校で、反ソ活動が問われて逮捕され、消息不明。

クレショフ効果

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すでにモジューヒンがフランスに去ったのち、ソビエト連邦が成立した1922年(大正11年)、映画作家映画理論家レフ・クレショフが、全ロシア映画大学学内で行った、映画の「編集」と映像がもつ「意味」の関係についての実験に、モジューヒンの出演作品のアーカイヴ・フッテージが使用された。

おもなフィルモグラフィ

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その他

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小説『ロリータ』で知られるウラジーミル・ナボコフの自伝『記憶よ、語れ』の中では、モジューヒンのファンだったナボコフ少年が、ヤルタでロケ中だったモジューヒン本人に遭遇するエピソードがある。

外部リンク

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