イチフジイサミとは日本競走馬である。1975年天皇賞(春)を制した。オンリーフォアライフの代表産駒である。主戦騎手郷原洋行

イチフジイサミ
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1970年3月12日
死没 1992年10月30日(23歳没・旧表記)
オンリーフォアライフ
メニナ
母の父 Psidium
生国 日本北海道静内町
生産者 千代田牧場静内支場
馬主 保坂勇
調教師 松永光雄中山
競走成績
生涯成績 41戦7勝[1]
獲得賞金 1億6458万4500円[1]
勝ち鞍
八大競走 天皇賞(春) 1975年
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戦績

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1972年7月15日タケホープと同じレースでデビューし、6着だった[2]。その後もなかなか初勝利を掴む事ができず、この年は10戦したものの未勝利に終わった[3]

1973年1月、11戦目にしてようやく初勝利を掴んだイチフジイサミはその後、れんげ賞(200万下)、菜の花賞(400万下)と特別競走を2連勝し、クラシックへの挑戦権を手に入れた。

クラシック初戦の皐月賞単勝10番人気の低評価を覆して4着に入ったイチフジイサミはステップレースを挟まずに東京優駿(日本ダービー)に直行した。

ダービーではケガのため郷原洋行が騎乗できず、津田昭が騎乗した。この乗り代わりが不安視されて単勝は12番人気だったが、イチフジイサミはこの低評価を覆し好走した。イチフジイサミは最後の直線でハイセイコーを交わし、一旦は先頭に立ったものの、タケホープに馬体を寄せられる不利を受けた[4]のが致命傷となり、1馬身4分の3差の2着に惜敗した。

ダービー後、日本短波賞重賞初制覇を遂げたイチフジイサミはセントライト記念2着を経て、クラシック最終戦の菊花賞に向かった。だが、菊花賞では負傷した嶋田功の代役としてタケホープに騎乗した武邦彦の好騎乗の前になす術なく敗れ、ハナ差2着のハイセイコーからも3馬身離された3着に終わった。

菊花賞後、有馬記念に出走したが本来の調子になかったのか、11頭立て11着の殿負け(イチフジイサミにとって唯一の二桁着順)を喫して、この年を終えている。

1974年、イチフジイサミは12戦したが、善戦すれど勝てないレースが多く、重賞勝ちはオールカマーの1つにとどまった。同年11月に行われた天皇賞・秋では最後の直線で加賀武見騎乗のカミノテシオに斜行された[5]のが原因で、2分の1馬身差の2着に惜敗するなど、なかなかビッグタイトルを手にする事ができなかった。

1975年中山記念4着、ダイヤモンドステークス3着と経て挑戦した春の天皇賞で、最後の直線で斜行しながらも[6]前年度の二冠馬であるキタノカチドキに1馬身4分の3差を付けて優勝し、悲願を成就した。

秋は有馬記念を目標に調整されていたが、約2か月前に締め切られた第1回登録を調教師が忘れた[7]ため出走できなかった。そのため、同年11月に行われた目黒記念(結果は7着)が最後のレースとなった。

引退後

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引退後のイチフジイサミは不遇であった。故郷で悠々自適な種牡馬生活を送るはずであったが、種牡馬として売られた牧場が肝心の代金を払わず、千代田牧場が裁判を起こす事態となった。この裁判沙汰の最中に、イチフジイサミは一時行方不明[4]となってしまう。

初年度(1976年)の種付け頭数は15[1]で、3年目には1に減る[1]。4年目からは種付けの機会がなく、鵡川にある個人経営の牧場で当て馬兼用の生活を送っていた[8]が、のちに千代田牧場に引き取られ[9][3]、種付けを再開した[3]

その後1989年に田原安田牧場に移ったイチフジイサミは持病の喘息に苦しみ、結局、その喘息のため、23歳で安楽死の措置が取られている[10]

おもな勝ち鞍

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血統表

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イチフジイサミ血統(ベンドア系(エクリプス系)/Nogara 4×5=9.38%(母内)、Fairway 4×5=9.38%、Blandford 5×5=6.25%(父内)、Pharos 5×5=6.25%(母内)) (血統表の出典)

*オンリーフォアライフ
Only for Life
1960 黒鹿毛
父の父
Chanteur
1942 黒鹿毛
Chateau Bouscaut Kircubbin
Ramondie
La Diva Blue Skies
La Traviata
父の母
Life Sentence
1949 黒鹿毛
Court Martial Fair Trial
Instantaneous
Borobella Bois Roussel
Annabel

*メニナ
Menina
1963 鹿毛
Psidium
1958 栗毛
Pardal Pharis
Adargatis
Dinarella Niccolo Dell'Arca
Dagherotipia
母の母
Menke
1955 黒鹿毛
Nakamuro Cameronian
Nogara
Ann of Austria Fairway
Ann Gudman F-No.13-e


脚注

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  1. ^ a b c d 日本中央競馬会優駿』1979年5月号、pp.34-35「三歳の新種牡馬(1)」
  2. ^ このレースでタケホープは快勝している。
  3. ^ a b c 『優駿』1985年5月号、pp.94-95「ちょっと気になるあの馬はいま イチフジイサミ」
  4. ^ a b 「サラブレッド101頭の死に方」p.191
  5. ^ 大橋巨泉『巨泉 競馬界を斬る』(日刊スポーツ出版社、1977年)p.85
  6. ^ 騎乗していた郷原には3万円の過怠金が科せられている(『優駿』1975年6月号、p.19)
  7. ^ 『優駿』1975年12月号、p.89「サークルだより イチフジイサミ 有馬記念の登録なし」
  8. ^ 『優駿』1979年12月号、pp.60-62「ゆうしゅん/読者取材のページ(29) イチフジイサミ」
  9. ^ 飯田正剛 (2009年5月1日). “Best Luck”. こぼれ話. 千代田牧場. 2011年8月19日閲覧。
  10. ^ 「サラブレッド101頭の死に方」p.192

外部リンク

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