イェス・モンケ
イェス・モンケ(モンゴル語: Есөнмөнх)は、チャガタイ・ハン国の君主(在位:1246年 - 1251年[1])。チンギス・カンの次男チャガタイの子。
生涯
編集チャガタイは生前孫のカラ・フレグを自らのウルス(所領)の相続人に指名し、1241年にチャガタイが没した後カラ・フレグがチャガタイのウルスを相続した [2]。1246年にモンゴル帝国のカアンに即位したグユクはイェス・モンケを支持し、カラ・フレグに代えて彼をチャガタイ・ウルスの支配者に任命した[2]。
在位中のイェス・モンケは飲酒に耽り、政務は妃と宰相のバハーアッディーン・マルギーナーニーに一任していた[3]。グユクの死後に開催されたクリルタイでチンギス・カンの四男トゥルイの子モンケが新たなカアンに選出されるが、イェス・モンケは即位式への出席を拒否した[4]。1251年にカアンに即位したモンケはカラ・フレグをウルスの支配者の地位に戻し、イェス・モンケの処刑を命令するが、カラ・フレグはモンケの命令を果たす前に没した[5]。カラ・フレグの妃オルガナによってイェス・モンケは処刑され、マルギーナーニーはチャガタイ時代の宰相ハバシュ・アーミドによって処刑された[6]。
脚注
編集参考文献
編集- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』2巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1968年12月)
- ルネ・グルセ『アジア遊牧民族史』下(後藤富男訳, ユーラシア叢書, 原書房, 1979年2月)
- 『中央ユーラシアを知る事典』(平凡社, 2005年4月)
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