アンドレイ・コズイレフ
アンドレイ・ウラージミロヴィチ・コズイレフ(コーズィレフ、ロシア語: Андре́й Влади́мирович Ко́зырев, ラテン文字転写: Andrei Vladimirovich Kozyrev、1951年3月27日 - )は、ソビエト連邦及びロシアの外交官、政治家。エリツィン政権で外務大臣を務めた。
アンドレイ・コズイレフ (コーズィレフ) Андрей Владимирович Козырев | |
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アンドレイ・コズイレフ | |
生年月日 | 1951年3月27日(73歳) |
出生地 | ベルギー、ブリュッセル |
出身校 | モスクワ国際関係大学 |
前職 | 外交官 |
初代 ロシア連邦外務大臣 | |
在任期間 | 1991年 - 1996年 |
経歴
編集1951年3月27日父親の勤務地であったベルギーの首都ブリュッセルで生まれる。
1968年から一年間、モスクワの機械製造工場「コムナール」に就職し、機械工として働く。
1974年モスクワ国際関係大学を卒業する。同年ソ連外務省に入省する。
ソ連外務省では本省の国際機関局に勤務。1990年国際機関局長。英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語に堪能である。その一方で在外公館における勤務の経験は無い。この間1971年にソ連共産党に入党した。
ロシア連邦共和国の実権を握ったエリツィンによって、1990年10月にロシア外相に任命される。コズイレフは、1991年12月のロシア、ウクライナ、ベラルーシの三首脳による「ベロヴェージの森の陰謀」にエリツィン、ゲンナジー・ブルブリス、セルゲイ・シャフライらとロシア代表団の一人として参加し、ソ連を崩壊に導いた。1992年3月に東京で渡辺美智雄外相との外相会談を行い、北方領土問題において歯舞・色丹を引き渡す交渉と国後・択捉の地位に関する交渉を同時並行で行った上で平和条約を締結することを含めた秘密提案を行っている。
コズイレフの外交路線は、急進改革派と軌を一にして親西欧路線を基本としてロシアのNATO加盟を目指した(平和のためのパートナーシップ)。後にエフゲニー・プリマコフが外相になった際にはこの路線は修正されることになる。
1993年12月の下院国家会議選挙に「ロシアの選択」の推薦を受けて、ムルマンスク選挙区から立候補し当選した。その後、議会では院内会派「ロシアの選択」に当初所属していたが、1994年12月に同会派から離脱し、以後無所属。下院では、国際問題委員会に所属。1995年12月下院議員に再選される。下院議員当選に伴い、1996年1月外相を解任される。下院予算・税金・銀行・財政委員会に所属。
2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻は野蛮な行為だと厳しく非難し、ロシアの外交官全員に抗議の辞任をするよう求めた。欧米諸国によるロシアへの制裁は政府の意思決定者やその意思決定の実行者に限定すべきとも主張したが、ウラジーミル・プーチン大統領やセルゲイ・ラブロフ外相らの名義の資産は発見不可能なので効果がないとも指摘した[1]。
出典
編集- ^ “ロシア元外相、ウクライナでの戦争は「野蛮な行為」”. CNN.co.jp. CNN. (2022年3月4日) 2022年3月4日閲覧。
公職 | ||
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先代 ウラジーミル・ヴィノグラードフ (ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国外務大臣) エドゥアルド・シェワルナゼ (ソビエト連邦外務大臣) |
ロシア連邦外務大臣 初代:1991 - 1996 |
次代 エフゲニー・プリマコフ |