アントーニオ・ペレグリーニ
ジョヴァンニ・アントーニオ・ペレグリーニ(Giovanni Antonio Pellegrini、1675年4月29日 - 1741年11月2日)は、イタリアの画家である。ヴェネツィア出身の画家でヨーロッパ各地で活動した[1]。
アントーニオ・ペレグリーニ | |
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Antonio Pellegrini | |
![]() 自画像 (c.1717) | |
生誕 |
1675年4月29日 イタリア、ヴェネツィア |
死没 |
1741年11月2日 (66歳没) フランス、ヴェネツィア |
略歴
編集ヴェネツィアで靴屋の息子に生まれた。ヴェネツィアで初めパオロ・パガーニ(Paolo Pagani: 1655-1716)に学び、1696年にパガーニがヴェネツィアを去った後、セバスティアーノ・リッチ(Sebastiano Ricci: 1659-1734)に学んだ[1]。1699からローマに修行にでて[1] バロックの画家、ルカ・ジョルダーノ(1634-1705)とも知り合った。1701年からヴェネツィアのアルブリッツィ宮殿(Palazzo Albrizzi)の装飾画を描き、1702年からローマの教皇庁図書館(Pontificia Biblioteca Antoniana)の装飾画を描いた。1704年にヴェネツィア生まれの女性画家、ロザルバ・カッリエーラ(1675-1757)の妹と結婚した。
画家としての名声が高まり、国外でも働くようになり、1708年はセバスティアーノ・リッチの甥のマルコ・リッチ(Marco Ricci: 1676-1730)とともにロンドンを訪れ、いくつかの宗教画を描いた。1713年にプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムに招かれ、デュッセルドルフに移り、現在シュライスハイム城(Schleissheim Palace)に収蔵されている一連の寓意画を描いた。
1716年にはアントウェルペンの醸造者ギルドから注文を受け、1720年にはパリの王立銀行の天井画を描き、1727年にはウィーンのサレジオ会の教会の天井画も描いた。
弟子には画家、版画家のアントニオ・ヴィセンティーニ(Antonio Visentini: 1688-1782)がいる[2]。1741年にヴェネツィアで亡くなった。
作品
編集-
絵画の寓意画 (1725/1730)
アカデミア美術館 (ヴェネツィア) -
パードヴァのドゥオーモの祭壇画(c.1716)
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アポロとミューズ
アングル美術館 -
スキピオの自制
クリーブランド美術館
脚注
編集- ^ a b c Bernard Aikema. "Pellegrini, Giovanni Antonio." Grove Art Online. Oxford Art Online. Oxford University Press. Web. 9 Mar. 2016.
- ^ R. Pallucchini, La pittura veneziana del Settecento, 1960; P. Zampetti, Dal Ricci al Tiepolo, 1969; G. Knox, Antonio Pellegrini, 1675-1741 (Oxford University Press), 1995.
参考文献
編集- Levey, Michael (1980). Painting in Eighteenth Century Venice (second ed.). Oxford: Phaidon.