アントン・ラファエル・メングス
アントン・ラファエル・メングス(Anton Raphael Mengs, 1728年3月12日 – 1779年6月29日)は、ドイツの画家。現在のチェコのウースチー・ナド・ラベムに生まれた。
アントン・ラファエル・メングス Anton Raphael Mengs | |
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自画像 | |
生誕 |
1728年3月12日 ハプスブルク帝国 ボヘミア王国 アウシヒ・アン・デア・エルベ |
死没 |
1779年6月29日 教皇領、ローマ |
運動・動向 | 新古典主義 |
ローマ、マドリード、ザクセンなどで活動したが、特にスペイン王カルロス3世の宮廷画家として有名である。新古典主義における先駆者の一人とみなされる。
略歴
編集現在のチェコのウースチー・ナド・ラベムで生まれた。父親はデンマーク生まれでザクソン王室の宮廷画家、Ismael Mengsである。父親から絵画を学んだ。姉のテレーゼ(Therese Maron)、妹のユリア(Julia Charlotte Mengs)も画家となった。1741年から1744年の間、父親とローマに住み、巨匠たちの作品を学んだ。ドイツに戻り、17歳でドレスデンで画家として雇われた。
1746年に再びローマを訪れ、カトリックに改宗し、イタリア女性と結婚した。1749年にドレスデンに戻り1751年にザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の宮廷で、宮廷画家として雇われた。1751年にローマに行き、サン・ルカ・アカデミーの会員に選ばれた。1755年に新古典主義の理論的支柱となった美術史家のヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンと知り合い、大きな影響を受けた。メングスはロココ様式を離れ、新古典主義の先駆者の一人となった。この時代、スペインの大使で美術愛好家のホセ・ニコラス・デ・アサーラ(José Nicolás de Azara)の支援を受けた。
1755年に、ローマ教皇クレメンス13世から、Cavaliere di speron d'oroの称号を受け、1759年にナポリに旅し、王族の肖像を描いた。ナポリ王、シチリア王であった カルロス3世がスペイン王を継ぐためにマドリードに移ると、メングスはローマに戻り、枢機卿アルビニ邸(Villa Albani)にフレスコ画を描いた。この作品はドイツ古典主義の重要な作品となった。1761年にマドリードに招かれ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロとともに宮殿の装飾画を描いた。この頃ヴィンケルマンと対立し、二人の友情は終わった。
その後、またローマに戻り、ヴァチカンから報酬を受け、アカデミア・ディ・サン・ルカの会長に任じられた。
1772年スペイン王の命令でマドリードに戻り、若き日のフランシスコ・デ・ゴヤの才能を見出し支援した。病気でローマに戻り、ローマで没した。
作品
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Helios as Personification of Midday ( 1765年頃)
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Diana as Personification of the Night (ca. 1765)
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La marquesa de Llano
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Madonna and Child
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Saint Peter
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The Triumph of History over Time, ceiling Vatican Library.
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Portrait of William Burton Conyngham (1733–1796)
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The Dream of St. Joseph, 1774
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自画像、
(蔵)メトロポリタン美術館, 1774