アンジェロ・ピエトラサンタ
アンジェロ・ピエトラサンタ(Angelo Pietrasanta、1834年11月27日 † 1876年6月4日)は、イタリアの画家である。
アンジェロ・ピエトラサンタ | |
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Angelo Pietrasanta | |
![]() 1876年の書籍の肖像画 | |
生誕 |
1834年11月27日 イタリア、コドーニョ |
死没 |
1876年6月4日 (41歳没) イタリア、ミラノ |

略歴
編集ロンバルディアのコドーニョで生まれた。裕福な家の出身で、叔父のルイージ・ビーシ(Luigi Bisi: 1814-1886)はミラノのブレラ美術アカデミーの教授であった。1850年からブレラ美術アカデミーに入学しフランチェスコ・アイエツに学んだ。
1858年にコンクールに宗教的な題材の作品を出展して優勝し、フィレンツェとローマに留学する奨学金を得た。フィレンツェではメディチ・リッカルディ宮殿のルネサンスの画家ベノッツォ・ゴッツォリの壁画を模写し、フラ・アンジェリコやドメニコ・ギルランダイオ、マサッチオ、ティツィアーノ・ヴェチェッリオの作品を研究した。フィレンツェの芸術家たちのたまり場であった「カッフェ・ミケランジョロ」にも出入りし、テレマコ・シニョリーニ(1835-1901)らとも友人となった。1860年にローマに滞在し、ローマでは彫刻家のオドアルド・タバキー二(Odoardo Tabacchi: 1831-1905)と住み修行した。ミラノに戻ると1863年にブレラ美術アカデミーの会員に選ばれた。
フレスコ画の他、肖像画や風俗画、歴史画、風景画も描いた。代表作の「Gli Orti Rucellai(チェライ庭園)」 1864年に ブレラ美術アカデミーに出展され、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世によってミラノの王宮のために買い上げられた。1868年に、エレウテリオ・パリアーノ(Eleuterio Pagliano: 1826-1903)とともにミラノのアーケード「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア」の装飾に参加し[1] 、寓意画を描いたが、この作品は1911年に劣化が激しいことから、同じデザインのモザイクに置き換えられた。
ピエトラサンタは 1876年に腎炎で41歳で亡くなった。
作品
編集-
詩人ダンテ(1840/1860)
アンブロシアーナ絵画館 -
彫刻家オドアルド・タバキー二
脚注
編集- ^ La Pittura lombarda nel secolo XIX, Tipografia Capriolo e Massimino, 1900, page 74.
参考文献
編集- Pietrasanta, Angelo. In: Hans Vollmer (Hrsg.): Allgemeines Lexikon der Bildenden Künstler von der Antike bis zur Gegenwart. Begründet von Ulrich Thieme und Felix Becker. Band 27: Piermaria–Ramsdell. E. A. Seemann, Leipzig 1933, S. 10 (biblos.pk.edu.pl).
- Rita Randolfi: Pietrasanta, Angelo. In: Raffaele Romanelli (Hrsg.): Dizionario Biografico degli Italiani (DBI). Band 83: Piacentini–Pio V. Istituto della Enciclopedia Italiana, Rom 2015.