アレクセイ・キリチェンコ
アレクセイ・イラリオノヴィチ・キリチェンコ(ロシア語名: Алексе́й Илларио́нович Кириче́нко、1908年2月12日-1975年12月28日)は、ソビエト連邦の政治家。ニキータ・フルシチョフ政権下の1957年から1960年までの間、ソ連共産党中央委員会第二書記を務めた。
アレクセイ・キリチェンコ Алексе́й Кириче́нко | |
---|---|
1942年 | |
生年月日 | 1908年2月12日 |
出生地 | ロシア帝国、ウクライナ ヘルソン |
没年月日 | 1975年12月28日(67歳没) |
死没地 | ソビエト連邦、モスクワ |
所属政党 | ソビエト連邦共産党 |
在任期間 | 1957年12月17日 - 1960年4月5日 |
中央委員会第一書記 | ニキータ・フルシチョフ |
在任期間 | 1953年6月12日 - 1957年12月26日 |
ソ連共産党書記(筆頭格) →第一書記 | ニキータ・フルシチョフ |
生涯
編集キリチェンコは、1908年2月12日、ロシア帝国ウクライナの工場労働者の家に生まれた。11歳から畑で働き、それから鉄道で働くことによって生活のための収入を得始めた。機械学校を卒業した後、彼はソフホーズのエンジニアとしてカザフスタンで働く。その後、ウクライナに戻り、大学の学位(1936年)を取得し、農業工学を教えた。
1930年以来の共産党員。主としてウクライナの党機構畑で活動し、1953年ウクライナ共産党第一書記、1955年ソ連共産党幹部会員、1957年書記局員となる。このような昇進にもかかわらず、1960年1月ロシア共和国のロストフ州第一書記に格下げされ、5月党幹部会解任、6月州第一書記を解任され、完全に失脚。
1975年12月28日に死去。67歳没。遺体はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬された。
|