アレクサンドル・フレブ
アレクサンドル・パウラヴィチ・フレブ(ベラルーシ語: Алякса́ндар Па́ўлавіч Глеб、Aliaksandr Paŭlavič Hleb、1981年5月1日 - )は、ベラルーシ・ミンスク出身の元同国代表サッカー選手。
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コンヤスポル時代(2014年) | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
アレクサンドル・パウラヴィチ・フレブ Aliaksandr Paulavich Gleb | |||||
愛称 |
ベラルーシの野獣 "Zauberlehrling"(魔術師の弟子) | |||||
ラテン文字 | Aliaksandr Gleb | |||||
ベラルーシ語 | Аляксандр Паўлавіч Глеб | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ベラルーシ | |||||
生年月日 | 1981年5月1日(43歳) | |||||
出身地 | ソビエト連邦 ミンスク | |||||
身長 | 185cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF / FW(WG) | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1997-1998 | ディナモ・ミンスク | |||||
1998-1999 | BATEボリソフ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1998 | ディナモ=ユニ・ミンスク | 11 | (1) | |||
1998-2000 | BATEボリソフ | 25 | (4) | |||
2000-2001 | シュトゥットガルトII | 17 | (1) | |||
2000-2005 | シュトゥットガルト | 137 | (13) | |||
2005-2008 | アーセナル | 89 | (7) | |||
2008-2012 | バルセロナ | 19 | (0) | |||
2009-2010 | → シュトゥットガルト (loan) | 27 | (0) | |||
2010-2011 | → バーミンガム (loan) | 19 | (1) | |||
2011 | → ヴォルフスブルク (loan) | 4 | (1) | |||
2012 | クリリヤ・ソヴェトフ・サマーラ | 8 | (0) | |||
2012-2013 | BATEボリソフ | 29 | (3) | |||
2014 | コンヤスポル | 30 | (2) | |||
2015 | ゲンチレルビルリィ | 15 | (2) | |||
2015 | BATEボリソフ | 4 | (0) | |||
2016 | ゲンチレルビルリィ | 12 | (0) | |||
2016 | BATEボリソフ | 6 | (0) | |||
2017 | クリリヤ・ソヴェトフ・サマーラ | 7 | (0) | |||
2018-2019 | BATEボリソフ | 16 | (0) | |||
2019 | FCイスロチ・ミンスク・ラヨン | 13 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
2000-2004 | ベラルーシ U-21 | 24 | (5) | |||
2001-2019 | ベラルーシ | 80 | (6) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
姓のГлеб(Hleb)の「Г」は、キリル文字では原則として[g]を表すが、ベラルーシ語では[ɦ](日本語の「は、へ、ほ」のような音)を表す。本人によると、発音はフレブではなくグレブであるが、ドイツ語との兼ね合いで間違えたものを直さずにいた。弟もサッカー選手で、元ベラルーシ代表のFWヴィアチェスラフ・フレブ。
経歴
編集クラブ
編集初期の経歴
編集17歳の時にディナモ・ミンスクからBATEボリソフへ移籍し、1999年のベラルーシリーグ優勝に大きく貢献した。
シュトゥットガルト
編集AEKアテネからのオファーもあったがブルガリア代表のクラシミール・バラコフとのプレーを望み、ドイツ・ブンデスリーガのVfBシュトゥットガルトに、弟のヴィアチェスラフとともにおよそ15万ユーロの移籍金で移籍した[1]。以降中心選手として活躍し頭角を表す。
1部でのデビューは2000年5月5日のカイザースラウテルンとのアウェーでの一戦だった[2]。ドイツでの1年目は出場6試合であったのにもかかわらず、2年目はチームの重要選手としてレギュラーポジションを掴んだ。
2002-03シーズン、チームはリーグ戦をバイエルンに次ぐ2位で終え、フレブ自身もプレーメーカーとしての地位を確立した。
しかし、チームを率いていたマガト監督が2004年夏にバイエルンに引き抜かれ、マティアス・ザマーが新監督に就くと、チームは下降線を辿りリーグ戦を5位で終えることとなった[3]。フレブ個人はこのシーズン、ブンデスリーガ最多アシストを記録した。
アーセナル
編集2005年6月より移籍金1500万ユーロの4年契約でアーセナルFCへ移籍した[4]。アーセナルでは様々なポジションをこなしたが、主に右ウイングを務めていた。8月のアウェーでのチェルシー戦でデビューした。その後まもなく代表での怪我で数ヶ月間離脱し、12月7日のCLアヤックス戦で戦列に復帰し60分間プレーした。2006年1月のミドルズブラ戦(7-0で勝利)で移籍後初得点を記録した。チームはCLで決勝へ進出したがバルセロナに敗れ準優勝となった。この試合でフレブはCL決勝でプレーした初のベラルーシ人選手となった。フレブはイングランド初年度を40試合出場で3ゴールで終えた。
2006-07シーズンはハムストリングの故障に悩まされながらも48試合に出場し3得点を記録した。
2007-08シーズン、怪我人が相次いだため、ヴェンゲル監督はフレブのポジションを前線に移しロビン・ファン・ペルシの後ろのシャドーストライカーの位置に入った。その後エマニュエル・アデバヨールやエドゥアルドの復帰に伴い、フォーメーションが4-4-2に戻ると、フレブも本来のサイドのポジションに戻った。シーズン終盤のレディング戦(2-0で勝利)でのグレイム・マーティーへ危険なタックルをしたことでFAから3試合の出場停止処分を受け、チームより先にシーズンを終えた。
バルセロナ
編集インテル、レアル・マドリー等との争奪戦のなか[5]、2008年7月16日、移籍金1500万ユーロ(約24億円)+インセンティブの4年契約でFCバルセロナへと移籍した。違約金は9000万ユーロ[6]。 バルセロナはリーガ、コパ・デル・レイ、チャンピオンズリーグと3冠を達成するも、フレブはバルセロナのスタイルに馴染めずにカップ戦要員となり、リーグ戦での先発出場は5試合に留まった。
2009-10シーズンはインテルからのオファーを断り、古巣のシュトゥットガルトへ1年間レンタル移籍した[7][8][9][10]。ブンデスリーガ開幕戦のアウェーでのVfLヴォルフスブルク戦(0-2で敗戦)で55分間プレーした。CLプレーオフのアウェーのでのティミショアラ戦で復帰後初ゴールを決めた[11]。
2010年8月31日、バーミンガム・シティFCへ1年間のレンタル移籍が決定した。代表戦で足首を負傷したため、初出場が9月18日のウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC戦(1-3で敗戦)まで遅れた。その試合から3日後のリーグカップMKドンズ戦で初ゴールを決めた。しかしその後再び負傷し、古巣アーセナルとのリーグカップ決勝を欠場することとなった。シーズン終了後はシュツットガルトかアーセナルの古巣への復帰を望んでいた[12][13]。
2011-12シーズン前半はヴォルフスブルクにレンタル移籍をした[14] ものの再び怪我に泣かされ4試合の出場に留まった[15]。
クリリヤ・ソヴェトフ
編集ヴォルフスブルクから復帰後、双方合意の下でバルセロナとの契約を解除[16] して、クリリヤ・ソヴェトフへ6ヶ月契約で移籍した。
BATEへ復帰
編集2012年7月26日、ベラルーシリーグ覇者のBATEボリソフと契約し、12年ぶりに古巣へ復帰した。10月2日に行われたCL・グループF第2節のバイエルン戦で好プレーを見せ、3-1の勝利に導いた[17]。
コンヤスポル
編集2014年1月4日、コンヤスポルへ1年6ヶ月+1年の延長オプションの契約で移籍した[18]。
ゲンチレルビルリィ
編集2015年2月2日、ゲンチレルビルリィSKに移籍した[19]。
代表
編集2001年にウェールズとの一戦でフル代表デビューを果たした。2002年4月、デビューから2戦目のハンガリー戦で代表初ゴールを決めて5-2で勝利したチームに貢献した。
2006年11月、代表チームの元キャプテンであるセルゲイ・グレンコが「フレブ兄弟は試合中も試合外も王様気取りで、スロベニア戦のあと彼らは自家用車に乗ったが他の全員はチームバスに乗ったんだ。特にアレクサンドルはチームのために働いていない」と批判した。
2007年8月、批判がある中で、当時の代表監督であったベルント・シュタンゲから代表キャプテンに指名された。同月22日、初めて腕章をつけて臨んだイスラエル戦を2-1の勝利を収めた。
エピソード
編集- 2003年、ミンスクで自動車事故に巻き込まれ、他の車の乗客は後に死亡した。[20]
- シュトゥットガルトでプレーしていた時、柔らかなスキルと眩しいばかりのトリックで"Zauberlehrling"("魔術師の弟子"の意)と呼ばれていた[21]。
- フレブがシュトゥットガルトに所属していた時に、当時バイエルン・ミュンヘンに所属していたミヒャエル・バラックが「フレブが加入すればチャンピオンズリーグも優勝できる」と発言した。
- アーセナル在籍時は北ロンドンのハムステッドに住んでいた[22]。
- アーセナルでのチームメイトだったセスク・ファブレガスと公私にわたって仲が良い。また、セスクからは「明らかに自分よりも巧い選手であり、世界でもトップクラスの実力を持っている。もっと評価されるべき選手だ」と絶賛されていた。フレブもまた、バルセロナ移籍後にセスクに関して「彼はフラミニとともに一番の親友の一人で、移籍前バルセロナについて色々教えてくれた」と語っている。
- バルセロナ移籍直前に「セスクはエゴイスティックだ。他にフリーの選手がいるのにパスを出さないんだ」とし、「ベンゲル監督と自分は考え方が違う」と批判した[23] が、後に自身の公式サイトで発言を捏造されたとしている。
- 2008年の夏、ベラルーシの音楽グループ「トップレス」のアナスタシア・コセンコワと結婚した。
- バルセロナでは、優勝パレードを行なっていたバスから転落してしまった。
- アーセナルから移籍したことを後に大きく後悔しており[24]、セスクとクリシにアーセナルからの移籍報道が出た際に残留を勧めている[25]。その後両者は移籍し、特にセスクはフレブが所属するバルセロナへ移籍した。
- また、2009年のシュトゥットガルト復帰も「自身のキャリア最高の時期を無駄にした」と述べている[26]。
- バルセロナ退団後のインタビューでグアルディオラと衝突があった事を明かし「ペップは世界最高の監督ではなく、世界最高のチームを率いた監督だ。世界最高の監督とはモウリーニョやファーガソン、そしてヴェンゲルだ」としている。またセスクに関しては「将来的に世界一の称号を得る為の全てを持っている。クラブの中心になる為には時間が必要だよ。アーセナルでのセスクと比較すると少し不十分だ」としている[27]。
個人成績
編集代表での得点
編集# | 日時 | 場所 | 対戦相手 | スコア | 最終結果 | 大会 |
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1 | 2002年4月17日 | デブレツェン | ハンガリー | 1 – 1 | 5–2 | 親善試合 |
2 | 2002年5月19日 | モスクワ | ロシア | 2 – 0 | 2–0 | LGカップ |
3 | 2005年2月9日 | グロジスク・ヴィエルコポルスキ | ポーランド | 1 – 0 | 3–1 | 親善試合 |
4 | 2006年8月16日 | ミンスク | アンドラ | 1 – 0 | 3–0 | |
5 | 2009年4月1日 | アルマトイ | カザフスタン | 1 – 1 | 5–1 | 2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 |
6 | 2010年3月3日 | アンタルヤ | アルメニア | 2 – 1 | 3–1 | 親善試合 |
タイトル
編集クラブ
編集- BATEボリソフ
- ベラルーシ・プレミアリーグ (6) : 1999, 2012, 2013, 2015, 2016, 2018
- VfBシュトゥットガルト
- UEFAインタートトカップ (1) : 2002
- バルセロナ
- リーガ・エスパニョーラ (1) : 2008-09
- コパ・デル・レイ (1):2009
- UEFAチャンピオンズリーグ (1) : 2009
- バーミンガム・シティ
- カーリングカップ (1) : 2011
個人
編集- ベラルーシ最優秀選手賞 : 2002, 2003, 2005, 2006, 2007, 2008
- ブンデスリーガ最多アシスト : 2004-05
- アーセナル月間最優秀選手 : 2005.8
脚注
編集- ^ “Aliaksandr Hleb profile on MasterCard UEFA Champions League”. MasterCard 2006年7月18日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “2000–01 player stats” (German). Weltfussball.de. オリジナルの2008年5月18日時点におけるアーカイブ。 2008年4月13日閲覧。
- ^ “2004–05 Bundesliga table” (German). Weltfussball.de. オリジナルの2008年5月18日時点におけるアーカイブ。 2008年4月13日閲覧。
- ^ “International Midfielder Agrees To Join Arsenal”. plusmarketsgroup.com. オリジナルの2007年9月27日時点におけるアーカイブ。 2007年8月27日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “マドリーがフレブ争奪戦に参加?”. Goal.com. (2008年5月21日) 2015年1月29日閲覧。
- ^ “Hleb signs four-year deal”. FCBarcelona.cat. (2008年7月16日). オリジナルの2008年8月4日時点におけるアーカイブ。 2008年7月16日閲覧。
- ^ “Hleb vor Wechsel zum VfB Stuttgart” (German). sportbild.de. 2011年10月2日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “Hleb, cedit a l'Stuttgart [Hleb on loan to Stuttgart]” (Catalan). FCBarcelona.cat. (2009年7月30日) 2011年10月2日閲覧。
- ^ “Hleb returns to VfB”. vfb.de (2009年7月30日). 2009年7月30日閲覧。[リンク切れ]
- ^ Pearce, Nick (2009年7月30日). “Alexander Hleb joins Stuttgart on season-long loan from Barcelona”. Daily Telegraph (London) 2009年7月30日閲覧。
- ^ “シュツットガルト、アウェーで先勝”. UEFA.com. (2009年8月19日) 2015年1月29日閲覧。
- ^ “アーセナル愛を語るフレブ”. Goal.com. (2011年4月18日) 2015年1月29日閲覧。
- ^ “ブンデスリーガ復帰を望むフレブ”. Goal.com. (2011年4月30日) 2015年1月29日閲覧。
- ^ “フレブのヴォルフスブルク移籍が決定”. Goal.com. (2011年8月31日) 2015年1月29日閲覧。
- ^ “ヴォルフスブルク、フレブの契約延長を行わず”. Goal.com. (2011年12月13日) 2015年1月29日閲覧。
- ^ “バルサがフレブとの契約を解除”. Goal.com. (2012年2月1日) 2015年1月29日閲覧。
- ^ “昨季ファイナリスト、バイエルンがBATEに敗北”. Goal.com. (2012年10月3日) 2015年1月29日閲覧。
- ^ http://www.hurriyet.com.tr/spor/futbol/25503464.asp
- ^ “元アーセナルMFフレブも最終日に移籍。今どこにいるの?”. Qoly. (2015年2月4日) 2015年2月4日閲覧。
- ^ Sheehan, Pat (2005年6月29日). “Hleb death smash hell”. London: The Sun Online 2006年7月18日閲覧。
- ^ “Hleb plots happy return to Camp Nou”. UEFA.com (2010年3月15日). 2015年1月29日閲覧。
- ^ “Playboy from Minsk making capital gains”. Guardian Unlimited. (2006年3月26日) 2015年1月29日閲覧。
- ^ “アーセナルのフレブがセスクを「エゴイスト」と批判”. ゲキサカ. (08/7/9 15:00) 2015年1月29日閲覧。
- ^ “フレブ:「アーセナルを離れたのは失敗だった」”. Goal.com. (2009年8月13日) 2015年1月29日閲覧。
- ^ “フレブ:「セスクとクリシには残留を勧める」”. Goal.com. (2010年5月25日) 2015年1月29日閲覧。
- ^ “フレブ:「キャリア最高の時期を無駄にした」」”. Goal.com. (2012年1月17日) 2015年1月29日閲覧。
- ^ “Hleb: Wenger better than Guardiola”. LADYARSE.com 2015年1月29日閲覧。
外部リンク
編集- FC Barcelona profile
- BDFutbol profile
- Alexander Hleb at transfermarkt
- アレクサンドル・フレブ - Soccerbase
- Alexander Hleb - fussballdaten.de
- アレクサンドル・フレブ – FIFA主催大会成績