アレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
アレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(Alexander von Hessen-Darmstadt, 1823年6月15日 - 1888年12月15日)は、ドイツの軍人。バス勲章保持者。バッテンベルク家の祖。
アレクサンダー Alexander | |
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ヘッセン=ダルムシュタット家 | |
全名 |
一覧参照
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出生 |
1823年6月15日 ヘッセン大公国、ダルムシュタット |
死去 |
1888年12月15日(65歳没) ドイツ帝国 ヘッセン大公国、ユーゲンハイム |
配偶者 | ユリア・ハウケ |
子女 | |
父親 | ルートヴィヒ2世 |
母親 | ヴィルヘルミーネ・フォン・バーデン |
生涯
編集ヘッセン大公ルートヴィヒ2世とその妃ヴィルヘルミーネの四男(第5子)として、ダルムシュタットで生まれた。全名はアレクサンダー・ルートヴィヒ・ゲオルク・フリードリヒ・エミール(Alexander Ludwig Georg Friedrich Emil)。大公の子供たちのうち、アレクサンダーとマリー(のちのロシア皇后マリア)の2人は、母ヴィルヘルミーネとその愛人アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・スナルクラン・ド・グランシー男爵との不義の子供だった。
成長すると、アレクサンダーは大公家の男子のならいとして軍人になり、ロシア軍に所属して輝かしい戦歴を重ねた。彼はのち聖ゲオルギー十字勲章を皇帝から授けられた。妹マリーが皇太子妃であることは、彼にとって不利な条件ではなかったのは事実である。
このまま何事もなくいけば軍人としての出世は間違いなかったが、妹の女官ユリア・ハウケ伯爵夫人との恋が醜聞となったことから、それ以上の栄達はなくなった。ユリアは「伯爵夫人」の称号をもつドイツ系ポーランド人女性で、皇帝がポーランド立憲王国で任じた国防副大臣ヤン・マウリツィ・ハウケ伯爵の娘だった。当時、ニコライ1世は自分の姪をアレクサンダーと結婚させようと考えており、このロマンスを聞きつけると、2人の結婚を禁じてしまった。ヨーロッパの君主一家の一員が、一伯爵程度の下流貴族と結婚するなど考えられないことだった。
アレクサンダーは自分の将来を熟考しイギリスへ渡るが、ほどなくロシアへ戻り、サンクトペテルブルクからユリアと駆け落ちした。2人は1851年にプロイセンのブレスラウで正式に結婚した。
2人はヘッセンへ戻ったが、アレクサンダーの長兄ルートヴィヒ3世大公はユリアの爵位の低さに不機嫌になった。ユリアは大公により「バッテンベルク伯爵夫人」(アレクサンダー夫婦が最初隠遁していた、ヘッセン北部の小さな町の名にちなむ)の称号を授けられたが、今後生まれる2人の子供たちには大公家の継承権は与えられないことになった。ユリアはのち「大公子の妃」のランクに高められ、夫妻はダルムシュタットに住むようになった。
継承権のない夫妻は、静かな生活をおくった。2人は主としてハイリゲンベルク城(ヘッセン南部、ユーゲンハイム近郊)に住んだ。
アレクサンダーは1888年に亡くなり、ユリア妃はその7年後にシューロス・ハイリゲンベルクで亡くなった。
バッテンベルク家
編集アレクサンダーとユリアの5人の子供たちは、母の爵位を姓とした。醜聞となった結婚にもかかわらず、バッテンベルク家の者はヨーロッパ貴族の中に受け入れられ、イギリス王室の一員にまでなった。アレクサンダーの次男アレクサンダーはブルガリア公となった。
- マリー・カロリーネ(1852年 - 1923年) - エアバッハ=シェーンベルク伯(のち侯)グスタフ・エルンストと結婚
- ルートヴィヒ・アレクサンダー(1854年 - 1921年) - 初代ミルフォード・ヘイヴン侯爵
- アレクサンダー・ヨーゼフ(1857年 - 1893年) - ブルガリア公。
- ハインリヒ・モーリッツ(1858年 - 1896年) - イギリス王女ベアトリスと結婚
- フランツ・ヨーゼフ(1861年 - 1924年) - モンテネグロ王女アナと結婚
20世紀に入ると、アレクサンダーの血を引く3人の子孫が、ヨーロッパの君主の配偶者となった。
- ヴィクトリア・ユージェニー - スペイン王アルフォンソ13世妃。アレクサンダーの孫。
- ルイーズ - スウェーデン王グスタフ6世アドルフ妃。アレクサンダーの孫。
- エディンバラ公フィリップ - イギリス女王エリザベス2世の王配。アレクサンダーの曾孫。