アルトゥル・スタニスワフ・ポトツキ
アルトゥル・スタニスワフ・ポトツキ(Artur Stanisław Potocki, 1787年5月27日 - 1832年1月30日)は、ポーランドの貴族、軍人。伯爵。小説家ヤン・ポトツキの次男。
アルトゥル・スタニスワフ・ポトツキ Artur Stanisław Potocki | |
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出生 |
1787年5月27日 フランス王国、パリ |
死去 |
1832年1月30日(44歳没) オーストリア帝国、ウィーン |
埋葬 | ポーランド立憲王国、クラクフ、ヴァヴェル大聖堂 |
配偶者 | ゾフィア・ブラニツカ |
子女 | アダム・ユゼフ |
家名 | ポトツキ家 |
父親 | ヤン・ポトツキ |
母親 | ユリア・ルボミルスカ |
生涯
編集ヤン・ポトツキとその妻でスタニスワフ・ルボミルスキ公爵の娘であるユリア・ルボミルスカ公女(Julia Potocka)の間の次男として生まれた[1]。母が若くして死んだため、兄のアルフレトとともに母方の祖母イザベラ・ルボミルスカ公爵夫人(Izabela Lubomirska)の手許で養育された。
1807年にワルシャワ大公国の陸軍大佐(連隊長)となり、1812年ロシア戦役には自らの私費で一個連隊を用意して参加した。また幼馴染みのユゼフ・ポニャトフスキ公の副官を務めた。ナポレオンの皇帝退位後はポーランド会議王国の軍隊に所属し、百日天下でも大同盟軍の下で戦った。その後、ロシア皇帝アレクサンドル1世の副官となり、ロシア軍近衛猟騎兵連隊所属の中尉となった。
ポトツキはクラクフに居を定め、同市にポド・バラナミ宮殿(牡羊座宮殿、Pałac pod Baranami)を建てて住んだ。クラクフの歴史的建造物の保存・管理に熱心だったほか、慈善施設や病院の建設を積極的に援助した。1825年からはクラクフ自由市の国会議員、貴族院議員を務めた。またマルタ騎士団の騎士にも叙任されていた。
1816年にフランチシェク・クサヴェリ・ブラニツキ伯爵の娘ゾフィア・ブラニツカ(1790年 - 1879年)と結婚し、間に3男1女の4人の子女をもうけた[1]。末息子のアダム・ユゼフ・ポトツキ(1822年 - 1872年)は政治家として活動した。1832年に死去すると、クラクフのヴァヴェル大聖堂にあるポトツキ家(Potocki family)霊廟に葬られた。
参考文献
編集- Potocki, Artur Stanisław Gf.. In: Österreichisches Biographisches Lexikon 1815–1950 (ÖBL). Band 8, Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften, Wien 1983, ISBN 3-7001-0187-2, S. 231.
脚注
編集- ^ a b Minakowski, Marek Jerzy. “Artur Potocki z Podhajec h. Pilawa (Srebrna) (ID: 2.261.101)”. 28 March 2012閲覧。