アマーリエ・ルイーゼ・フォン・アーレンベルク
アマーリエ・ルイーゼ・フォン・アーレンベルク(独: Amalie Luise Prinzessin und Herzogin von Arenberg, 1789年4月10日 - 1823年4月4日)は、ドイツ=ベルギー系の上級貴族アーレンベルク公爵家の公女で、バイエルン公ピウス・アウグストの妻。フランス語名はアメリー・ルイーズ・ダランベール(Amélie Louise d'Arenberg)。
アマーリエ・ルイーゼ・フォン・アーレンベルク Amalie Luise von Arenberg | |
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出生 |
1789年4月10日 オーストリア領ネーデルラント、ブリュッセル |
死去 |
1823年4月4日(33歳没)![]() |
配偶者 | バイエルン公ピウス・アウグスト |
子女 | マクシミリアン・ヨーゼフ |
家名 | アーレンベルク家 |
父親 | ルイ・マリー・ウジェーヌ・ダランベール |
母親 | マリー・ド・マイイ=ルバンプレ |
生涯
編集アーレンベルク公シャルル・マリー・レーモン(カール・マリア・ライムント)の四男ルイ・マリー・ウジェーヌ(1757年 - 1795年)と、その最初の妻マリー・ド・マイイ=ルバンプレ(1766年 - 1789年)の間の一人娘として生まれた。1807年5月26日にブリュッセルにおいて、バイエルン公爵家(以前のプファルツ=ビルケンフェルト=ゲルンハウゼン公爵家)の嗣子ピウス・アウグストと結婚し、一人息子のマクシミリアン・ヨーゼフ(マックス・ヨーゼフ)(1808年 - 1888年)をもうけた。夫妻はバンベルクに居を構えた。
夫のピウス・アウグストの乱暴な素行があまりに目に余るため、本家筋のバイエルン王マクシミリアン1世は1817年にマックス・ヨーゼフを父親から引き離すため、ミュンヘンの寄宿学校に入れた。アマーリエが1823年に早世するまでに、一人息子と会うことを許されたのは一度だけだった。アマーリエの遺骸はテーゲルンゼー城内の墓廟(現在のテーゲルンゼー修道院)に葬られた。アマーリエの死後、ピウス・アウグストは完全に公的生活から引退して暮らした。