アマチュア倶楽部』(アマチュアくらぶ)は、1920年(大正9年)に製作・公開された日本映画である。大正活映(略称:大活)の設立第1作であり、谷崎潤一郎のオリジナルシナリオ[注釈 1]を基に、トーマス・栗原が監督した。

アマチュア倶楽部
監督 トーマス・栗原
脚本 谷崎潤一郎
原作 谷崎潤一郎
出演者 葉山三千子
高橋英一
撮影 稲見興美
製作会社 大正活映
配給 大正活映
公開 日本の旗 1920年11月19日
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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夏の湘南の海を舞台に、若者たちを中心として起こる様々な騒動を描く、アメリカ風のドタバタ喜劇で、クロスカッティング[注釈 2]クローズアップなどの技法が用いられたり、コンテを使用するなど、アメリカ式の技術を取り入れた画期的な作品となった。また、日本映画において初めて水着女性が写しだされた作品でもあり[2]、主演の葉山三千子が水着姿を披露し、彼女は日本最初の「水着美人」と言われた[3]

フィルムは紛失しており、現在は観賞することはできない。[4]

あらすじ

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鎌倉由比ヶ浜の海水浴場。村岡繁ら湘南ボーイたちは浜辺で戯れていたところに水着姿の三浦千鶴子が現れ、ボーイたちの視線を釘付けにさせる。その頃千鶴子の家では家宝の土用干しを行っていたが、そこへ二人の泥棒が忍びこむ。一方、村岡の別荘では繁を始め、素人の歌舞伎グループ「アマチュア倶楽部」のメンバーたちが『太閤記十段目』と『先代萩 床下の場』の芝居を公演するためにその稽古に余念がなかった。三浦家へ入った泥棒は帰って来た千鶴子に発見されて逃げ出す。村岡の別荘の大広間では歌舞伎の公演が行われていた。父の留守を狙っての公演だったが、公演中に突然父が帰って来てしまう。父は激怒し、「アマチュア倶楽部」のメンバーは先代萩の衣装のまま家を飛び出す。泥棒は再度千鶴子の家へ忍び込むが、そこへ鎧を着ていた千鶴子と遭遇し、泥棒は浜辺目がけて逃走し、千鶴子は鎧のまま彼らを追いかける。さらに繁と千鶴子の親の通報で警察も駆けつけ、四つ巴の追っかけが展開される。[1][5][6]

出演者

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製作・公開

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俳優には大活の俳優養成所の新人俳優を起用し、「型」にとらわれない自由な演技を要求した[7]。その、本作に出演した新人俳優の中には岡田時彦(高橋英一名義)、内田吐夢(閉田富名義)、井上金太郎(栗井饒太郎名義)らもおり、他に葉山や紅沢葉子、谷崎夫人(千代)とその娘(鮎子)、本作の装置担当の尾崎庄太郎活動弁士内藤紫漣杉浦市郎白石紫紅らも出演している。

1920年(大正9年)8月20日に撮影が開始され、9月下旬に完成[8]、同年11月19日有楽座で封切られた。冒頭字幕直後の最初のカットで、煙草を吸う谷崎の顔がクローズアップで写しだされ、話題となった[9][10][11]

脚注

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注釈
  1. ^ 当初の題名は『避暑地の騒ぎ』
  2. ^ 日本映画で初めてクロスカッティングが用いられた作品である[1]
出典
  1. ^ a b 田中純一郎著『日本映画発達史Ⅰ 活動写真時代』p.298
  2. ^ 平野正裕「大正期横浜における映画製作と「純映画劇運動」:大正活映とトーマス栗原、あるいは日本における映画監督の誕生」『横浜開港資料館紀要』第25号、[横浜] : 横浜市ふるさと歴史財団、2007年、35頁、ISSN 0288-9846国立国会図書館書誌ID:8853818 
  3. ^ ゆりはじめ『小田原事件 : 谷崎潤一郎と佐藤春夫』夢工房〈小田原ライブラリー〉、2006年、48頁。ISBN 4861580110https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008426908 
  4. ^ “[https://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/MOVIE/SILENT/30Tanizaki.htm 文豪の映画礼讃 ~谷崎潤一郎の映画製作]” (2024年6月9日). 2024年6月9日閲覧。
  5. ^ 『日本喜劇映画史』, p. 26
  6. ^ 『よみがえる幻の名作 日本無声映画篇』p.7
  7. ^ 谷口紀枝「初期時代の日本映画における演技形態の変遷 -型の演技から表情の演技へ-」『演劇映像学』第2012巻、早稲田大学演劇博物館、2013年3月、167-186頁、CRID 1050282677466784512hdl:2065/39087 
  8. ^ 千葉伸夫著『映画と谷崎』p.62
  9. ^ 大正活映と谷崎潤一郎|元町歴史散歩
  10. ^ 筈見恒夫著『映画五十年史』p.71
  11. ^ 山口昌男『敗者学のすすめ』p.166

参考文献

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外部リンク

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