アブラーム=ルイ=ロドルフ・デュクロ
アブラーム=ルイ=ロドルフ・デュクロ(Abraham-Louis-Rodolphe Ducros、1748年7月21日 - 1810年2月18日)はスイス生まれの画家、版画家である。水彩画(ガッシュ)で油絵と同じような規模の風景画を描き、水彩画の歴史で特筆される画家である。
アブラーム=ルイ=ロドルフ・デュクロ Abraham-Louis-Rodolphe Ducros | |
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デュクロによる1水彩画「チボリの釣り人」(1777年) | |
生誕 |
1748年7月21日 スイス、Moudon |
死没 |
1810年2月18日 スイス、ローザンヌ |
略歴
編集ヴォー州ブロイエ・ヴュリーのMoudonに生まれた。1769年にジュネーブに移りファッサン(Nicolas-Henri-Joseph de Fassin)に学んだ後、イタリアに移り、1776年の終わりからローマに住んだ。1778年にオランダ貴族に雇われてシシリーとマルタへの旅に同行し、旅先で300点近い水彩画を描いた。1793年までローマで風景画家として働いた。版画家のジョヴァンニ・ヴォルパトと協力して24点のローマやその周辺の風景を版画にして1780年に出版した。1782年にロシア大公パーヴェル・アレクサンドロヴィチの依頼て2点の作品を描き、同じ年にローマ教皇、ピウス6世にも作品が買い上げられ、1784年にはスウェーデン王、グスタフ3世が多くの作品を買い上げたが、デュクロにとっての最大の顧客は、「グランドツアー」でイタリアを訪れる、イギリスの貴族、上流階級の子弟であった[1] 。
フランス革命の混乱から、ローマ教皇領の多くのフランス人は追放され、フランス系のデュクロも1793年に追放され、アブルッツォに移った後、ナポリで1799年まで暮らした。ナポリで描いた風景画もイギリス人の貴族が購入した。1800年にイギリス領になった、マルタに移り、トーマス・グラハム将軍のためにマルタの街バレッタの風景を描いた。
1807年の夏にスイスに戻り、ニヨン、ローザンヌで暮らし、1807年にジュネーブの美術協会の名誉会員となり、1809年にはベルンの美術学校の教授に任命されたが就任する前にローザンヌで没した。
デュクロの作品はローザンヌの美術館やイギリスのブラモール・ホール(Bramall Hall)などで見ることができる。
作品
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ポンティノ湿地を訪れるピウス6世 (1786、油絵)
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Crypta Neapolitana
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Grand Harbour
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Baths at Caracalla(版画)
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Colosseum
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マルタの洞窟
脚注
編集- ^ Reynolds, Graham (1971). Watercolours: A Concise History. London: Thames & Hudson. p. 42
参考文献
編集- Agassiz, Daisy (1927). A. L. Du Cros : peintre et graveur, 1748-1810. Lausanne: Éditions Spes.
- Chessex, Pierre; Haskel, Francis (1985). Roma romantica. Vedute di Roma e dei suoi dintorni di A.L.R. * Ducros. Milan: Franco Maria Ricci. ISBN 88-216-0110-2.
- Chessex, Pierre; Zutter, Jörg; Stainton, Lindsay; Prioul, Didier (1998). Abraham-Louis-Rodolphe Ducros : un peintre suisse en Italie. Lausanne: Musée cantonal des Beaux-Arts. ISBN 978-88-8118-363-0.