アドルフ・フリードリヒ・シュテンツラー
アドルフ・フリードリヒ・シュテンツラー(ドイツ語: Adolf Friedrich Stenzler、1807年7月9日 - 1887年2月27日)は、ドイツの東洋学者、インド学者。ドイツにおける初期のサンスクリット研究者で、サンスクリット教科書の編纂で知られる。
人物情報 | |
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生誕 |
1807年7月9日 スウェーデン(現・ ドイツ) ヴォルガスト |
死没 |
1887年2月27日 (79歳没) ドイツ帝国(現・ ポーランド) ヴロツワフ |
出身校 |
グライフスヴァルト大学 ベルリン大学 ボン大学 |
学問 | |
研究分野 | サンスクリット研究 |
研究機関 | ブレスラウ大学 |
博士課程指導教員 | フランツ・ボップ |
指導教員 |
アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル ゲオルク・フライターク |
主な指導学生 |
リス・デービッズ リヒャルト・ピシェル |
学位 | 博士(ベルリン大学・1829年) |
学会 | プロイセン科学アカデミー |
略歴
編集1807年、ポメラニア地方のヴォルガスト(当時はスウェーデンの飛び地)に生まれ、1826年からグライフスヴァルト大学で神学を学んだ。早くから東洋の言語に興味を持ち、翌1827年にベルリン大学に移ってフランツ・ボップからサンスクリットと比較言語学を学んだ。1828年にはボン大学に移り、アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルにサンスクリットを、ゲオルク・フライタークにアラビア語を学んだ。1829年に『ブラフマヴァイヴァルタ・プラーナ』の研究でベルリン大学の博士の学位を取得した[1]。
同年、当時の東洋学の中心であったパリに住んだが、七月革命を避けてロンドンへ移り、イギリス東インド会社の所有する写本を研究した[1]。
1833年にブレスラウ大学の員外教授に就任し、1847年に正教授に昇任した[1]。教え子にリス・デービッズやリヒャルト・ピシェルがある。
主要な著作
編集シュテンツラーは1869年にサンスクリットの教科書(Elementarbuch der Sanskrit-Sprache)を編纂した。後に教え子のリヒャルト・ピシェルによって改訂され、現在も使われている。荻原雲来によって日本語にも翻訳された。
シュテンツラーが校訂・出版した作品にはカーリダーサの詩『ラグ・ヴァンシャ』(1832、ラテン語訳つき)[2]・『クマーラ・サンバヴァ』(1838、ラテン語訳つき)[3]・『メーガ・ドゥータ』(1874)[4]、伝シュードラカ作の戯曲『ムリッチャカティカー』(1847)[5]などの文学作品や、『ヤージュニャヴァルキヤ法典』(1849、ドイツ語訳つき)[6]、ガウタマ『ダルマ・スートラ』(1876)などのヒンドゥー法の文献がある。
脚注
編集- ^ a b c ADB による
- ^ Raghuvansa: Kálidásæ Carmen. London. (1832)
- ^ Kumára Sambhava: Kálidásæ Carmen. Berlin, London. (1838)
- ^ Meghadûta der Wolkenbote. Breslau. (1874)
- ^ मृच्छकटिका id est curriculum figlinum. Bonn. (1947)
- ^ Yâjnavalkya's Gesetzbuch. Berlin. (1849)
参考文献
編集- Pischel, Richard (1893). "Stenzler, Adolf Friedrich". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 36. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 59–61.